「モノ」との「縁」を少しずつ切っていこうと思います

「モノ」がある故に、「人」は苦しみます。
なぜなら「モノ」は、有限だからです。
 
「石油資源」のために、戦争が起きて多くの人が苦しみます。
「領土」問題で、多くの人達が憎しみあいます。
「偏差値」や「通信簿」という有限な数字の高低で、
多くの子ども達や親達が、子ども自身の本来無限の「価値」を傷つけていきます。
そして、社会人になるともっとあからさまになり、
どんな仕事をして社会に貢献しているかとうことよりも、
どのくらいの年収をもらっているかということで「人」の価値が決まるのです。
 
また、私達は社会人になると本格的に「お金」という「モノ」の奪いあいを始めます。
「お金」をよく稼げる人間が「善」であり、
「お金」をよく稼げない人間は絶対的「悪」である。
「AKB48」の存在は、この社会の「本質」をよく表わしていますね。
彼女らの「善悪」の判断は、彼女たちの「心」でなく、
「遺伝子」という「モノ」で決められた「容姿」によってなされるのです。
 
「モノ」は有限であるがゆえ、「分配」という行動が常になされます。
そして、それは「不公平」という「不満」や「憎しみ」「争い」を常に生み続ける訳です。
「兄弟げんか」から始まり、会社の利益の分配である「お給料」の多寡、
そして、国が集めた税金の使途を、国民は「不信」「不満」の感情の下で注視します。
 
社会のあらゆる「苦しみ」の原因は「モノ」です。
(私の定義する「モノ」には、資源のように目に見える「モノ」以外にも、
 遺伝子という「モノ」が生んだ「本能」や「欲」も含みます)
 
私自身は、自分への評価を「他人のモノサシ」ですることがなくなったので、
随分楽になりました。
「他人のモノサシ」は言い換えると、年収や容姿や成績と言った「モノ」による評価です。
そうではなくて、私は自分自身を自分の「心」で評価しています。
 
そういったことができているので、それで十分かなとも思っていたのですが、
より「モノ」への「依存度」を落としていこうと考える次第です。
例えば、「お金」をなるべく自分のためには使わないようにする。
「浪費」や「消費」を、とことんまで抑えるつもりです。
私はあれだけ「モノ」を害悪と思っていたのに、コンビニで甘い物を買っていました。
「心」は「モノ」によって埋めるのではなく、「心」によって埋めるべきです。
「モノ」では瞬間的に埋まっても、すぐにまた「心」が飢えてきます。
それどころか「モノ」への依存が高まり、依存症のような状態になってしまう訳です。
これからは、
「心」の隙間を、技術として会得している「瞑想」等によって埋めていこうと思います。
有限な「モノ」に依存せず、無限の「心」を拠り所とした、
生活サイクルを推進することで、軽やかな「幸せ」を手に入れたいと考える次第です。
 
私は、「モノ」との「縁」を少しずつ切っていこうと思います。
その先に何があるのか、またブログで報告していきたいと考えている次第です。