「ご縁」を「信」じる

「人生」には、様々な「出会い」が待ち受けています。
 
「出会い」というものは不思議なもので、
出会う相手を自分で制御することができない。
だから、コインを入れたら「カプセル」で景品が出てくる「ガチャガチャ」のように、
「人」は日々、様々なタイプの人とランダムに出会っていく訳です。
 
「出会う」人とは、自身との何らかの「ご縁」があります。
何十億という「人」が存在するこの「世界」で、
「出会う」ということに、やはり私は特別な「意味」を感じるのです。
 
このように、日々新たに発生していく「ご縁」ですが、
実に様々なタイプのものが用意されています。
まるで無限の種類の「カプセル」が用意されている「ガチャガチャ」のようです。
そう考えると、少しワクワクしませんか?
 
さて、この「ご縁」。
将来結婚相手となるような望ましい「ご縁」もあれば、
出会ってみて「ああ、嫌だな」っていう、不快を感じる「ご縁」もあると思います。
 
不快を感じる「ご縁」の場合、「感情」的に気分を害され、
「ご縁」を切る方向にアクションを起こすことも少なくないのではないでしょうか。
 
私は、もともとプライベートでは人付き合いが苦手で、
「余計」な「ご縁」が増えることを嫌っていました。
ですが、仕事ではそうはいきませんので、
日々新たに生じる「ご縁」と対峙をしなければいけない訳です。
逆にその場合においては、私は「ご縁」と真摯に対峙します。
多分、私は「ご縁」の重さがイヤなんです。
余計な気を遣う「ご縁」は、私にとってはまるで仕事のような負荷となります。
だからプライベートでは、なるべく「ご縁」を背負わないようにする。
しかし、私の価値観を受け入れてくれる人には、本当にありがたいと思い、
そこに「意味」を感じ、もっともっと「ご縁」を深めたいと感じる。
私は「見捨てる」ことができない性分なので、
中途半端に「ご縁」を抱えたくないという動機も介在していると思います。
そういう訳で、私にとって「ご縁」はとても重たい存在なのです。
 
しかし、仕事ではそんなことを言っていられません。
仕事上で発生する「ご縁」は、
望ましい「ご縁」であれ、苦手な「ご縁」であれ、
まずはその「ご縁」を大事にしたいと思う訳です。
(それでも、自分から初対面に近い人に会いに行って
 「ご縁」を増やそうとは思わない訳ですが)
その結果、普通の人なら「切ろう」と思うような苦手な「ご縁」であっても、
私は、私の目の前に現れた「ご縁」の「重さ」や「意味」を無意識に感じ、
その「ご縁」に対して、きっと他の人よりは丁寧に対応します。
 
このように、いい「ご縁」であろうと、イヤな「ご縁」であろうと、
丁寧に対応していくと、その「ご縁」はどんどん開けてきます。
特にイヤな「ご縁」の方が、大きく開けることが多い。
 
それは、イヤな「ご縁」の相手というのは、やはりクセがある人が多く、
自身の価値が通用することの希少性を認識されているからなのかなと思う次第です。
このようにイヤな「ご縁」との関係が深まっていくと、
その「ご縁」は自分にとって、ある「意味」を発するようになります。
その「意味」とは、
苦手野菜を克服して、その野菜の味わい深い部分を知るというような、
「ご縁」の「深み」を知り、「心」のふところが広くなるということ。
結果として、
他の人から見たら、なんであんな「人」とうまくやっているの?という「人」とも、
私は割とうまくやっていけていると思います。
 
そのような、自分にとって苦い「ご縁」を食べ続けていると、
対人関係でイヤな思いをするのは、
自分の「心」の方に原因があるのだなという気になってくるのです。
 
また、自分の「心」のふところが広くなってくると、
自分に対しても「寛容」になり、
「苦しみ」を抱え込まない「心」の体質に変化していきます。
そうなってくると、楽ですよ。
 
仏教では、嫌いな人と会うことを「怨憎会苦(おんぞうえく)」と言って、
「四苦八苦」の「苦しみ」の一つにカウントされています。
この「苦しみ」の「ご縁」から逃れるためには、
その「ご縁」を切っていくよりも、
自身の「心」を鍛えた方が早いと、私は感じた次第です。
 
だってもし仮に「ご縁」に「意味」があるとしたら、
イヤな「ご縁」をいくら苦々しく切っていっても、
また同じタイプの「ご縁」が人生の「ガチャガチャ」からしつこく出てきそうですからね。