「心」を「揺ら」さない方法

いかに「心」を「揺ら」さないようにできるのか?
それは、以下の2つの要素に分解できます。
 
(1)「外部」もしくは「世界」からの「突風」を受けても、
   「感情」が、かき乱されないか?
(2)また、「感情」が瞬間激しく動いたとしても、
   次の瞬間には「心」の「安定」を取り戻せているか?
 
気づいていない人もいるかもしれませんが、
「心」を「揺ら」さないようにすることは、生きていく上で重要なスキルです。
 
理由は2つ。
 
一つは、いちいち「外部」から他律的に自身の「心」が動かされていたら、
「心」の「平安」を得られず、「幸せ」を感じることができなくなるから。
時には、「追い風」という形で「幸せ」が外からやってくることもあるでしょうが、
それは「運」の要素が強いので「幸せ」と言うよりも「幸運」と呼ぶべきものです。
本当の「幸せ」は、「他律」的に享受するものではありません。
「自律」的に発見して噛み締めるものです。
 
もう一つは、「心」を安易に「揺ら」してしまうと、
キリスト教の「7つの大罪」の一つ「憤怒」の「欲」が出てきてしまうということです。
「憤怒」の「欲」は、自身の「心」が「揺れ」ている原因を相手に見出し、
相手の「心」を攻撃しようとします。
そうするとどうなるか?
相手の「心」にも「憤怒」が発生し、お互いの「心」の「揺れ」が共鳴し増幅します。
そして、「不幸」の嵐がやってくるのです。
政治家等の偉い人で、この「憤怒」の欲求を制御できていない人を見ますが、
とても「器」が小さく、そして醜く見えますよね?
このように「憤怒」の「欲」とは、
内から見るとオーガのように「雄々しい」姿をしていますが、
外から見るとゴブリンのように「卑小」な姿をしているのです。
 
さて、「心」の「揺れ」に話を戻します。
ブログトップの(1)と(2)について、私はどうかと言いますと・・・
 

(1)「外部」もしくは「世界」からの「突風」を受けても、

   「感情」が、かき乱されないか?
 他の人よりも「感情」の「揺れ」は少ないように感じています。
 だけど、「憤怒」の「欲」は、私の中にも同居しているようです。
 相手の挙動に瞬間的にカッとなることはあります。
 
(2)「感情」が瞬間激しく動いたとしても、
   次の瞬間には「心」の「安定」を取り戻せているか?
 これについては、結構得意です。
 瞬間的に動揺したりカッとなったりしても、次の瞬間には「心」は安定しています。
 
今日のテーマは、(1)と(2)それぞれについての解決策の提示です。
先天的・後天的に獲得した私なりの対処法を記していきます。
 
(1)は、その人自身の「価値観」の問題です。
同じ「生命」に対して、「上下」あるいは「優劣」を持ってしまっていないか?
 
自分が「下」に見られたくないが故に、
「プライド」という「38度線」のような「不可侵領域」を作ってしまっていないか?
その「不可侵領域」に他者が立ち入ってしまうと、「感情」の「地雷」が爆発します。
あるいは、自分を「下」に見過ぎて、「外部」の動向に怯えていないか?
 
結局、全ては「心」の中で勝手に「上下」という幻想を抱いてしまっているから、
起こることなのです。
ですので、「仏教」で説くように、
全ての「生命」は等しく「美しい」という境地に辿り着く必要があります。
全ての「生命」は等しく「一生懸命」に生きている。だから「美しい」。
 
私は、過去のブログでも描いているように、
「雑草」や「虫」といった身の回りの「生命」の「美しさ」に気づき始めています。
身の回りの「生命」を無視する段階からは、脱却できているのです。
お陰で、自身の「生命」の「美しさ」にも気づくことができました。
 
しかし、まだまだ。
「ゴキブリ」のような「不快害虫」は相変わらず苦手です。
寄生虫」の生態には非常に興味を持っていますが、
彼らの「生き方」を「心」から肯定するためには、まだまだ考察や修行が必要そうです。
また、「エボラ出血熱」のような「殺人ウィルス」には、憎悪を覚えます。
 
上記のような「生命」への嗜好は、そのまま「人間」関係にも当てはまるものです。
例えば、こんな人達を私は苦手とします。
 「ゴキブリ」のように私が一方的な「不快感」を持ってしまう人々。
 「寄生虫」のような「生き方」をしている人々。
 「殺人ウィルス」のように「殺人」をしてしまうような人々。
 
これらの人々に対して「慈悲」を感じることができるのか?
その必要性があるかどうかは、まだ考察中ですが、おそらく「必要はある」のでしょう。
きっと全ての「生命」に「慈悲」を持ち、
自身の「心」の中から「上下」を取り除くことで、
真の「幸せ」はやってくるのだろうと思います。
 
さて次に、(2)の対処法についてです。
(2)「感情」が瞬間激しく動いたとしても、
   次の瞬間には「心」の「安定」を取り戻せているか?
 
これは、「人生」の「本質」を直感的に把握しているかどうかがポイントです。
外部の事象に「人生」の「本質」はありません。
仏陀も「本質」を知るために、「瞑想」という手段で、
「外部」との接触を断ち「内部」を見つめた訳です。
 
ですから、「外向的」な人よりも「内向的」な人の方が、
「幸せ」になりやすいと言えます。
制御不能な「世界」に対処するには、
まずは「自分」を知ることが重要なのです。
 
「人生」の「本質」を直感的に把握できるようになってくると、
自身の「心」は大地に「根」を張り、多少の「突風」にはビクともしなくなります。
「人生」の「本質」とは、「幸せ」です。
「感情」という「遺伝子」のもたらした「外部要因」に、
自身の「心」が振り回されることが、どれだけ「幸せ」を失うアホくさいことなのか。
今、「心」が「感情」にハイジャックされているか否か。
「心」がしっかりと根を張っていれば、容易に見抜くことができるでしょう。
 
という訳で、今日のブログでは、「心」を揺らさない方法について模索をしました。
 
(1)を完全に克服するのは、結構難しいと思う次第です。
私も、まだまだ「ゴキブリ」には嫌悪感を覚えますし。
持って生まれた「遺伝子(感情)」という「マーラ」を御するには、
もっと修行が必要です。
 
しかし(2)については後天的に獲得し得ると、私は考えます。
「人生」とは、それぞれのプレイヤーに課された「謎」です。
私は、「人生」を「脱出ゲーム」のような「アドベンチャーゲーム」だと捉えています。
この「脱出ゲーム」をクリアするための「鍵」を手に入れていくと、
最初の頃には倒せなかった強敵である「感情」にも、
対応策を採ることができるようになる訳です。
 
「心」が揺れていては、落ち着いて「脱出ゲーム」を攻略することができません。
「人生」の「本質」とは何か?自分なりに考えてみて下さい。
ビリヤードの玉のように、
「外部」から動かされて動いているだけの「人生」は本物ですか?
そんな動き方では偶然が起こらない限り、「真実」や「幸せ」には到達できません。
「脱出ゲーム」クリアのコツは、「トライ&エラー」です。
まず「仮説」を「考察」して、そしてその「仮説」を信じて自ら「動いて」みる。
こういうことを意図的に繰り返していくことで、脱出の「鍵」が集まってくるのです。
 
いくつかの「鍵」を集めていくと、超重要な「鍵」が手に入るようになっています。
それが、「感情」からの「自律」という「鍵」なのです。