現代社会を最もおびやかす「癡」(「痴」)

ブッダは、人々が苦しむのは「煩悩」があるからだと考えました。
そして「煩悩」は、「三毒」という三原色の組み合わせによって生まれるとしたのです。
 
三毒」とは、
(1)「貪(とん)」満足を知らないこと。
(2)「瞋(しん)」自分勝手な怒り。
(3)「癡(ち)」真理に対する無知の心。
の3つで構成されます。
 
さて、今まで「貪(とん)」と「瞋(しん)」について見てきましたので、
今日は、「癡(ち)」のお話です。
 
ブッダは言いました。
 あなたが旅をしていたとして、
 筏(いかだ)を使って川を渡った後、あなたは筏をどうしますか?
 その重い筏を背負って、陸路を歩きますか?
 どんなに優れた筏であっても、使い終わったら捨てるでしょう?
 私(ブッダ)の言葉も同じです。
 使い終わったら惜しみなく捨て去るように。
 決して私の言葉に依存し過ぎずに、自らの足で真理を求めなさい。
 
この点が、原始仏教は「宗教」でなく「哲学」だと考える所以です。
他の「宗教」のように、
私を信じない者は地獄に堕ちるとか、殺してもよいとかにはなりません。
あくまで仏教では、
ブッダが偉いのではなく、「真理」に近づこうとする者がよいとされるのです。
 
私は、「真理」とは、既に皆の「心」に存在すると考えています。
それは、「良心」と呼ばれます。
その「良心」が、人の正体です。
そして、この現世で生きるにあたって、私達にはもう一人同居人が居る。
それが、マーラと呼ばれる蛇。
すなわち、遺伝子という蛇なのです。
その遺伝子がもたらす「欲」が、私達の「幸せ」を阻害します。
 
上記が、私が「真理」に近づくために行った「考察」の一部です。
「真理」とは「本質」。
この「人生」やこの「世界」の「本質」を、私は自分なりに解明し続けています。
 
体験者として言いますが、ここまで自分専用のモノサシを構築できると、
「生きること」が楽になりますよ。
「心」が「自由」になれるんですね。
「私」は「私」。「あなた」は「あなた」。
「○○しないといけない」「○○でなければみっともない」という思い込みからの解放。
何より、自分の進む道が「幸せ」に繋がっているという「安心感」「自信」。
 
ぶっちゃけ言いますと、
私は「生」「老」「病」「死」がもたらす
「苦しみ」への「恐怖」も他の人より小さいと思います。
 
そう。「真理」や「本質」を求め、道を明るく照らしていけば、
「恐怖」という「闇」はその分縮小していくのです。
 
「癡(ち)」がもたらす最大の障害は、この「恐怖」です。
例えば「お金」を容易に手放せない「心」。
何も「貪(強欲)」だけが原因ではありません。
おそらく、より強力に現代人を縛っているのは「恐怖」の方です。
「老後の資金を貯めておかなければならない」
「将来、病気になったらどうしよう?」
 
だから、もし家族や自分が十分に生活していける「お金」を持っていたとしても、
苦しんでいる他者に容易に自分の「お金」を「与える」ことができないのです。
その他者というのが、一家心中しそうなほど「お金」に苦しんでいる場合であってもね。
 
ちょっと、話が脱線しました。
私の今までの説明に対して、こんな声が聞こえてきそうです。
 「真理」を追うなんて、一般人には無理だろ?
 「真理」なんて「科学」が解明しているじゃん?
 
はっきり言います。
「科学」は、まだまだ「真理」を解明していません。
私も、この「世界」や「命」や「心」のことを知りたくて、
多くの最先端の書籍を読みました。
「物理学」「生物学」「脳科学」「心理学」。
 
しかし「世界」の成り立ちや「命」や「心」のメカニズムは、まだまだ解明されていません。
それでも、私が「真理」を探求する上で大きな「助け」となりました。
なにしろ、「科学」は正しいですからね。
この点、「真理」を求めるには「ブッダ」よりも恵まれた環境にいると思います。
私のブログでは、仏教等の様々な思想の他に、
量子力学」や「量子脳理論」「利己的遺伝子」「脳科学」の分野も取り入れて
「真理」を「考察」しているのです。
 
そういう訳ですので、「科学」は「真理」解明の大きな「武器」になります。
しかし、あくまで「武器」です。「答え」ではありません。
 
私達は実は、
「科学」からは逸脱した偽の「科学」的な情報を盲信している場合もあるのです。
例えば、死んだら「無」になる。
 (誰かが、それを証明しましたか?)
例えば、「心」も「科学的」な仕組みで発生する。
 (え!「心」のメカニズムってもう完全解明されましたっけ?)
 
そういう意味では、
私達のいる現代の方が、ブッダの時代よりも「真理」から遠ざかっているように思います。
 
私は、今日まで「真理」を探求してきて、確信したことがあります。
自分なりの「真理」というモノサシを構築しないと、必ず迷うということです。
そして、その迷いはとても苦しい。
 
今の日本人は、自分のモノサシを創らなすぎ。
メディアや他者の欲にまみれたモノサシを借りて生きていたら、そりゃあ苦しくなります。
まだ、伝統的な「宗教」をモノサシにした方が楽に生きられるでしょう。
 
昨今、就職活動に失敗したことを一つの原因として自殺する若者も多いとか。
そりゃあ、就職活動に成功した人々のモノサシから見たら、
自分がクズに感じるかもしれませんが、
私から見たら、苦しみを経験した人の方が「優しい人」に見えますよ。
そんなあなただからこそ、この先苦しんでいる人を助けることができるはず。
ですので私のモノサシからしたら、
そんなあなたこそ、この「世界」に必要な人なのです。
 
まずは、この「世界」とどう対峙していくか、自分なりのモノサシを創りましょう。
そうしなければ、他者の容赦ない自分勝手なモノサシに流されて、
自分がどっかに行ってしまいますよ。