「人生」とは「泡」のようなもの

「生命」がこの「世界」に誕生した時、最初「泡」のようなものでした。
正確に言うと、水の中の油膜のような球体。
 
原始の海には、油膜の「泡」が無数にありました。
多くの「泡」はすぐに消えましたが、
何かの拍子で構造のしっかりしたしばらく消えない「泡」が生まれたのです。
そして、このようなしばらく消えない「泡」達が生まれて消えてを繰り返すうちに、
何かの拍子で、自分を二つに割って自分のコピーを生み出す「泡」が誕生しました。
 
それが最初の「生命」なのです。
 
それから何十億年も経って、様々な形に進化した私達「生命」ですが、
私達の体が「泡」であることには変わりありません。
太古に生まれた自己複製する「泡」は、「細胞」として息づいているのです。
 
一方、ビッグバンで誕生した「宇宙」も、「泡」のような形をしています。
「宇宙」は、大きく膨らんでいる途中の「泡」です。
ビッグバンの発生地点を中心に、「泡」の膜の所に銀河が点在しています。
ウィキペディア宇宙の泡構造」)
 
「生まれ」という観点では、「生命」も「宇宙」も似たような存在なのです。
 
私達が「泡」を思い浮かべる時、はかなく「消えて」しまうというイメージがあります。
そう、「泡」はいつかはじけて「消えて」しまうのです。
 
「生命」も、そしてきっと「宇宙」も。
いつか、儚(はかな)く。
 
この「儚さ」を、私達は肝に銘じておく必要があるように思うのです。
私達の「命」も、この「世界」も、いつか綺麗に「消えて」なくなるということを。
 
そういう前提の中で私達が「生きる」時に、何を想い「生きて」いけばよいのか?
 
「泡」。
例えば「シャボン玉」を私達が見つめている時に、
私達は儚い「シャボン玉」にどういった想いを重ねるのでしょうか?
 
「せっかく生まれたのだから、消えないでね」
「どこまで飛んでいくの?」
「あっ、消えちゃった」
 
せっかく生まれたのですから、消えるまでは消えない方がいいのかもしれない。
きっと誰かが、「消えないでね」と願っているような気がします。
 
シャボン玉が空高く飛んでいくと、私達は嬉しくなります。
きっと私達のことも、遠くまで飛んだら喜んでくれる誰かがいるかもしれない。
 
シャボン玉が消えてしまった時、私達の「心」に少し穴が空いたような気持ちになります。
きっと私達が消えた時にも、
「一生懸命」飛んだ「命」の消える瞬間をじっと見つめる誰かがいるかもしれない。
 
 
どこまでも「優しい」風に吹かれて、
その子を喜ばせるために、私達は遠くまで飛んでいきましょう。
そして、その子の「心」に何かを「優しく」語りかけるために、
私達はその瞬間、美しく鮮やかに消えましょう。
 
美しく「消える」ために、私達は「一生懸命」生きるのです。
 
シャボン玉は、いつか「消える」もの。
全ては、いつか「消えて」しまうもの。
 
ならば日々を「一生懸命」に生きて、美しく「消えて」いきましょう。