「箱」は「世界」を救う

昨日と今日、会社の研修で「箱セミナー」というものを受けました。
 
「箱セミナー」とは、
アマゾンビジネス書ランキング1位を記録している
『自分の小さな「箱」から脱出する方法(アービンジャーインスティチュート著)』
という人間関係のパターンを解明した書籍の内容に基づいたセミナーです。
 
私はその内容に、非常に納得感を覚え、共感をしました。
私はこのセミナーを受けて、
今まで考えてきた「この世界とは何か?」とか「人とは何か?」という「疑問」が、
すっきりと整理されていくように感じたのです。
 
この「世界」とは、「生命(心)」と「モノ」の対立だと私は考えています。
そして、この「箱セミナー」の話においても、
相手を、「人」と見るか、「モノ」と見るか、が、重要なポイントになっているのです。
 
人の本体は「良心」であり、
「本能(煩悩)」や「欲」は、
遺伝子という「モノ」から生起した人にとっての障害物であると、
私は今までのブログで「考察」してきました。
そして、人は「良心」に基づいて生きると「幸せ」になり、
「モノ」側の「欲」に支配されて「モノ」になってしまうと苦しくなるというのが、
私の考えです。
 
また同様に、他者から「人」として扱ってもらえれば、
人は優しくなれるし成長できるし「幸せ」になれる。
一方、他者から「モノ」のように扱われると、
人は「モノ」と化し、
優しくなれないし固定化された機能しか発揮できないし「幸せ」を感じることができない訳です。
 
さて「箱」セミナーでは、人を「モノ」として見る時の見方を3つに分類しています。
(1)便利、(2)邪魔、(3)無関心
確かに「モノ」に対しては、この3つの感情しか持ち得ないのではないでしょうか?
 
よく「人」に対して、「あいつ、使えねぇ」とか言いますが、
これなんかは完全に相手を「モノ」として見ていますよね。
「使えねぇ」なんて言われたら、ほとんどの人の「心」がざわつくはずです。
人は、「モノ」になることを望みません。
ちゃんと「一生懸命」生きている「生命」として見て欲しいのです。
 
特定の相手に対峙して、その相手を「モノ」として見ている状態を、
「箱セミナー」では「箱」に入ると言います。
「箱」に入っている時は、自身の「良心」を裏切っている状態。
「箱」に入っているから、自身の「良心」の声が聴こえなくなります。
 
そして「箱」のやっかいなところは、
「箱」に入って誰かに接すると、相手も「箱」をつくってしまうところです。
「箱」と「箱」がぶつかると、無限ループが発生します。
すなわち、「憎しみ」や「嫌悪」が二者の間でハウリングを起こし、増幅するのです。
 
なぜ増幅をするかという原因について、
「箱」セミナーでは実に興味深い説明をしています。
自身を「自己正当化」するために、実は相手とグルになって、
その苦しい状況をエスカレートするようにふるまっているというのです。
この裏腹な協力関係を「共謀」と言います。
 
例えば、私も経験したことがある「イジメ」。
「いじめっ子」は、当然相手を「モノ」として見ています。
憂さ晴らしの相手として「便利なモノ」。
 
一方「モノ」として扱われた「いじめられっ子」も、「いじめっ子」を憎む訳です。
憎んだ時点で、実はその「いじめられっ子」も「箱」に入っています。
相手を自身と同じ「人」とみなさず、「邪魔なモノ」とみなす訳です。
 
しかし「箱」に入っている時に、「人」は「良心」の呵責を感じます。
そしてその「良心」の呵責は、大きな「苦しみ」を本人に与えるのです。
そこで人はその呵責に耐えられず、無意識に「自己正当化」を図ろうとします。
 
例えば、いじめられっ子は相手を「悪魔」に仕立て上げて、「自己正当化」を図る訳です。
「箱」に入って相手を「モノ」として見ているのは、
相手が「悪魔」のような人でなしの下等な存在だから仕方がないと、
いじめられっ子は考えます。
そうであるならば、いじめっ子には「悪魔」でいてもらわなければ困る。
そのためにいじめられっ子は、自ら「箱」に入り「モノ」化することで、
いじめっ子の自分へのいじめを無意識にアシストしている訳です。
 
一方、いじめっ子にも「良心」の呵責はあります。
しかし、いじめられて当然の「無価値」な「モノ」として相手を蔑むことで、
その「良心」を麻痺させているのです。
また上述のとおり、いじめられっ子も自分から「モノ」になろうとするので、
イジメは繰り返され段々とエスカレートしていきます。
 
ですから、あたかも両者が「共謀」して、
イジメという「苦しみ」を継続させているように見える訳です。
 
この「箱」という考え方。
私は、日本社会で起きているあらゆる「苦しみ」に対応できると考えています。
 
日本という「社会」は、高度経済成長によって戦後の「モノ」不足を脱し、
現在は「心」の問題で、多くの人が苦しんでいます。
「自殺」が多いのは、その証左だと考える次第です。
 
なぜ人々は苦しむのか?
それは、「社会」が「人」を「モノ」化しようとしているからです。
偏差値という数字による「人」の価値の測定。
テレビ等のメディアから発信される一方的で表面的な価値観。
元々自分らしい個性的な形をしていた「人」は、既製品の四角い「箱」にされていくのです。
 
就職活動に失敗したくらいで自殺をする学生が多いのは、
「社会」の基準に満たない欠陥品となってしまった自分を
「無価値」と感じてしまったからでしょう。
 
学校での偏差値の低い生徒達が非行に走るのは、
「箱」に入った「社会」が、生徒を「モノ」として扱うからなのだと思います。
偏差値の低い「欠陥品」として扱われた生徒達も「箱」に入ってしまい、
ここで「社会」と「非行に走る生徒」の「共謀」が始まるのです。
生徒達は自身を「正当化」するために、ろくでなしの「社会」の犠牲者になろうとします。
だから、自ら進んで社会の「欠陥品」となろうとするのです。
「どうせ、俺らは欠陥品なんでしょ〜?」
 
本当は、彼らも同じ「一生懸命」生きている優しい「生命」なのに・・・
 
このように、日本で起きている多くの問題が「箱」で解決できると私は考えます。
問題の根源は、人を「箱」に詰めて「モノ」化しようとする「社会」のあり方です。
 
「人」は、「一生懸命」生きているだけで美しく素晴らしい。
そんな当たり前のことが、歪められています。
「偏差値」や「肩書き」「所得」、
そんなものに拘れば拘るほど、人は「モノ」化していきます。
そして「モノ」化した人々は、ゾンビのように他者を襲い、
更に他者を「モノ」化させていくのです。
 
では、自身の「モノ」化を解除する方法はあるのか?
私はその答えを、「箱セミナー」で「箱から出る方法」として学びました。
 
「幸せ」に生きる上で必要なことは、「モノ」として成功することではありません。
もっと簡単なことです。
「箱」から出て「生命」として生きることができれば、
それだけで「幸せ」になれると、私は考えます。