サングラスを外してみる

私と縁のあった子どもで、
K君という男の子がいます。
4歳から6歳まで、彼との時間を過ごしました。
 
彼の母親はシングルマザー、そして境界性人格障害です。
リスカやOD(薬物の過剰摂取)をやっていました。
 
私は昔、mixiをやっていました。
そのmixiにコミュニティーという同じ趣味の人が集うサークル活動のようなものがあって、
そこのコメント欄で助けを求めている彼女(母親)に出会いました。
 
当時彼女は、旦那さんの浮気に悩み、サークルの仲間で相談に乗り励ましているうちに、
とうとう旦那さんと離婚をしました。
K君は、母親である彼女にひきとられました。
父親もK君と会いたがっていたようでしたが、
彼女が報復として慰謝料と養育費だけ受け取り、
K君には会わせないようにしたようでした。
後からわかったことですが、
実は彼女自身も浮気をしていました。
彼女は、モラルが欠如した社会性のあまりない人でした。
彼女の元旦那さんは、彼女の高校時代の先生であり、
彼女は短大を卒業してからすぐに結婚をしました。
その結果、社会人経験がなく、
離婚後仕事をしても職場から孤立し、
すぐに辞職することを繰り返していました。
 
ある時、私と会って話がしたいと彼女からのコメントがあり、
私は彼女と、そして、Kくんと初めて会いました。
 
Kくんは、私から見たら母親の所有物のような愛され方をしていました。
そして、Kくんは私にとても懐いてくれました。
 
その後、彼女と定期的に会うようになるのですが、
いつしか私の目的はKくんと会うことになっていきます。
 
彼女の家を訪問し、Kくんと遊んだり、動物園に連れて行ったり。
日光に旅行にも行きました。
その時の彼とのやり取りは、
以下の「優しい唄歌い」の過去ブログに描いたような感じです。
 
十分に働くことができない母親の元での家庭は、貧困でした。
当時、私は経済的な支援をしていました。
また私は、Kくんのために、母親と結婚して、
Kくんを大学まで行かせてあげたいと真剣に考えました。
 
ただ、Kくんばかりに関心のある私の心は母親に見透かされ、
そのうち、会うことができなくなってきました。
 
最後に、Kくんと会ったときに、
私はボール紙でビー玉を転がす迷路をつくってあげて、
Kくんはとっても喜んでくれました。
 
そして「じゃあ次に会うまでに、Kくんも迷路をつくっておいてよ」と、
Kくんに宿題を出し、私は彼とわかれたのです。
 
しかし、その宿題を私は見ることができませんでした。
母親からのメールによると、彼は一生懸命迷路をつくっていたようです。
私はこのことを思い出すたびに、涙が出ます。今も、涙ぐんでいます。
 
また、母親から、小学校の入学式の写真が届いたことがあります。
彼の入学式の晴れ着は、知り合いから借りた衣装で、
ぜんぜんサイズが合わず、袖から手が出ていませんでした。
私はショックで涙が止まりませんでした。
 
 
話は変わります。
 
私は自分自身の不遇を昔は悩んだ時期もありますが、
今は正直どうでもいいという気持ちがあります。
多くのもっともっと「理不尽」な環境に居る人達に比べたら、
私なんか本当に恵まれています。
 
私も、マザー・テレサを尊敬しています。
彼女は、この「世界」のことをどう見ていたのでしょうか?
 
道ばたに捨てられているウジにまみれた瀕死の女性をマザー・テレサは、
彼女を教会に運び、息を引き取るまで介抱をしたそうです。
彼女が息を引き取る間際に、マザー・テレサに「笑顔」でありがとうと伝えたそうです。
マザー・テレサは、その時のことをこう言っていました。
今まで、こんな美しい「笑顔」に出会ったことはないと。
 
一生懸命生きている「命」は美しい。
それは、ブッダも言っていることです。
 
でも、この「世界」はどうなのかな?と思います。
一生懸命生きている「命」が「理不尽」に苦しまなければいけない、この「世界」。
 
Kくんのような存在に触れると、
あるいは、マザー・テレサが最期を看取った女性の境遇を想うと、
「世界」から「愛」が発せられているとは、とても思えない。
やはり「愛」を発するのは、「人」や「生命」からなのではないかと思います。
 
ただ私は、一つ勘違いをしていたようです。
今まで「他者」を、「世界」側に含めていました。
つまり、「他者」は理不尽であり、だからせめて自分は「優しく」あろうと。
 
だけど、「他者」の「愛」を信じていない自分こそが「理不尽」なのだと思います。
そんな状態では、自分が「他者」を愛することも、本当にはできていないでしょう。
 
もっともっと「他者」からの「愛」を感じられるようにならないといけないな、と思います。
サングラスを外して、もう一度「世界」を見つめ直してみようと思うのです。