「頼ること」と「利用すること」

私は「人」に何かを頼むことが苦手です。
 
「それを頼んだとき、相手は自分のことをどう思うのだろう?」
これを考えてしまって、私は「人」にものを頼むことを躊躇してしまう。
 
逆に私は「人」に何かを頼まれることが好きだという「感情」を持つことがあります。
「ああ、嫌だな」と思うときもあります。
 
その分かれ目は、「頼られている」のか、「利用されている」のか。
「利用されている」と感じているとき、私は「便利なモノ」として見られていると感じます。
「頼られている」と感じているとき、私は「一人の生命」として見られていると感じます。
 
「誰でもよいのではなく、私だから頼みたい」という気持ちからの依頼。
あるいは、誰にでも頼めることだけど私の仕事の負荷状態を知ろうとしてからの依頼。
こういったことを感じるとき、私は「一人の生命」として見られていると感じます。
 
「モノ」として扱われると、「心」はざわつき、
「生命」として接してくる人には、「心」は相手の「生命」を感じようとするのです。
 
さて冒頭に描いたように、私は「人」に何かを頼むことを苦手としています。
それは、私自身が相手を「モノ」として見ているからでしょう。
 
「自分は、相手をモノとして利用しようとしている」と感じてしまうと、
私は相手に何かを依頼することに、とても抵抗を持ってしまう。
 
さて、ここまで描いてきて、私の中で「答え」が見えてきたようです。
これが「描く」ことの力だと思います。
実は私は、「答え」を持たぬまま、
漠然とした日常で感じる「問題」を、
「ブログ」のテーマとして描き始めることがあります。
そうした場合、描いている間に段々「答え」が見えてくるのです。
だから、私は自分のキャパを超えた文章をブログで表現することが可能だと思います。
文字通り、描いている時にインスピレーションが降りてくるときもあります。
 
私にとって「描く」ことは、もう一人の内なる「自分」との「対話」なのです。
 
さて、今回見つけた「答え」を描いていきましょう。
「人」に何かを依頼するときには、
「あなただから・・・」「あなたが忙しいのはわかっているのだけど・・・」
という気持ちを常に持って、相手にコミュニケーションする必要がありそうです。
そうすれば、依頼を受けてくれるかどうかは別にして、
相手は私の頼みに「共感」をしてくれると思います。
 
相手を、「一生懸命」に生きている「生命」として見ること。
まず私は、この訓練をしっかりと積んだ方が良さそうです。