超「自分」本位に「責任」を引き受ける

先日、職場のとある事象を巡り、人間関係に問題が生じました。
それを職場の同僚の方に相談したところ、
非常に納得できるアドバイスを頂いたので、
ここに記録したいと思う次第です。
 
今回は、誰の「責任」か?ということが問題になりました。
 
言うまでもないことですが、
組織で発生した問題について「100%誰かの責任」ということはないはずです。
その問題に関わった人は複数いることが普通であり、
その中の誰かが有効な手を打っておけば防げることがほとんどだと思います。
 
そういう意味では、
本質的に「誰に責任があるのか」という犯人捜しに意味はない訳です。
 
しかし組織としては、問題を繰り返さないように手を打たなければならないし、
個人としても、そこの「責任」を見なければ、本人の「成長」はあり得ないと思います。
 
アドバイスをくれた同僚の方は言いました。
全てのことを、自分の100%の「責任」として引き受けることが得策であると。
 
その時に「痛み」はあったとしても、その「失敗」は自分の「成長」の絶好の糧になる。
その問題に対して、自分はどういう行動を採っているべきだったか?
その問題に対して採れなかった行動を、次回に採れるようになればよいのでは?
 
この結論に至るためには、大きな前提があります。
それは、「人生」の最大の「喜び」は「成長」であることです。
 
「人生」の重要ポイントが「世間体」や「人から嫌われないこと」「プライド」だったら、
こんな痛い選択はできません。
 
この痛い選択の結果、万が一組織を追われることになっても、
「人生」の唯一の目的が「成長」だと「信」じることができていれば、
他の環境で「成長」をすればいいだけなのです。
 
私は「不完全」な「世界」を、「理不尽」だと思っていました。
実際この前も、3歳の子どもが親の育児放棄で餓死するということがあったようです。
亡くなったその子どもの胃には、タマネギの皮とアルミ箔が入っていたとのこと・・・
 
だから「不完全」なこの「世界」に、完全に「心」を許すつもりはまだありませんが、
この(自分も含めた)「世界」の「不完全」さが、
「成長」の糧になることは間違いないことだと思います。
 
「不完全」な「世界」の至らない部分を、
これまた「不完全」な「自分」がカバーできるようになるということが、
すなわち「成長」するということなのだと考える次第です。
 
他者をそっちのけで、誠に「自分」本位な考え方ですが、
こうすれば全ての「不完全」を「自分」が納得して受け入れることができます。
 
「不完全」を責めたり嘆いたりしても、苦しいだけで何度も繰り返されます。
「不完全」は、「成長」して「不足を埋める」ために存在するのです。