高い「視座」で「感情」を持つ

「視座」って言葉、知っていると便利ですよ。
 
以前のブログにも描きましたが、
「視座」とは「誰の立場でものを見ているのか?」ということです。
「高い・低い」という形容詞で表現されます。
 
例えば、「私」よりも「私たち」の方が「視座」が高いということになります。
高さとは、物事を俯瞰する高度ということですね。
 
この「視座」という概念を知り、日常的に意識することで、
私たちの「人生」の生産性は向上します。
 
なぜならば、一人より二人で動いた方が効率がいいし、
二人よりも皆で動いた方がより大きなものを動かせるからです。
だから「視座」を高くして、複数人が同じベクトルで動けるようにすることは、
「人生」において大きなコトを成す前提なのかなと思います。
 
私たち人間は、社会性を宿命づけられた「生命」です。
個体単独で生きていくことはできません。
働き蜂が一匹で生きていけず、女王蜂が一匹で生きていけないように。
 
生物学の世界では、蜂や蟻を数千匹のファミリー全体で一つの生命体と見る向きもあるようです。
 
私たち人間にも、同様の見方が可能なのかもしれません。
例えば私は、
北海道の農家の方に食べ物を食べさせてもらい、
東南アジアの方に洋服を縫ってもらい、
関東の大工さんに建ててもらった家に住んでいる訳です。
そして代わりに私も、誰かのために作業したり考えたり行動したりします。
 
ですから私は一人の人間であると同時に、
人類全体という「生命」の一部であるという見方も可能です。
これは、私という人間が37兆個の細胞から成り立っているのと同じ構図になります。
 
すなわち宇宙人が人類を俯瞰するとき、
私一人は「72億分の1」の人類の一つの細胞に過ぎないという訳です。
 
さて話が少し飛躍しましたが、
このような他との切ることのできない「つながり」を有する私たちですから、
「視座」を高くすることで実現する何かがあると私は考えています。
 
例えば、親と子の会話。
一方的に親が自分の「感情」を子どもにぶつけている状態は、
「視座」が低い状態になるかと思います。
そうではなくて、親が子どもの「感情」も味わい踏まえて自身の「感情」を表現するとき、
そこで表現される「感情」は、親個人の私的「感情」から、
親子という共同生命体の「感情」に昇華し、
子どもの「心」も揺さぶり共鳴させるエネルギーを発するのではないかと考える次第です。
 
上記の例は、会社や国家という組織においても同様に当てはまります。
 
国民の税金を自分の私事に使ってしまった日本の某政治家。
自民党をぶっ壊します」と宣言した日本の元首相。
 
どちらが有権者の「感情」を踏まえた行動でしょうか?
そしてどちらが、有権者の「心」を共鳴させ揺さぶった政治家だったでしょうか?
 
このように、国家という共同体を運営する政治家には
当然のこととして「視座」の高さが要求されるのです。
「視座」の高さを持てない政治家は、国民の神経を逆なで続け、
いつかは消えていくと思われます。
 
親子であっても、会社であっても、国家であっても、
「視座」を高く持つことの意義をイメージして頂くことはできたでしょうか。
 
「私は・・」とか「おまえは・・」という低い「視座」から脱却して、
「私たちは・・」という高い「視座」で「感情」を感じる習慣をつけることで、
個人間の摩擦が軽減されストレスが減少すると共に、
一人で感じるよりも高い達成感や「心」の震えを感じることができるのだと思います。
 
・・なんだか小難しい話をしているように感じるかもしれませんが、
実は誰しもが経験している単純な話です。
 
サッカーのワールドカップで日本チームの勝利を祈って、
チームの活躍に自分のことのように一喜一憂したことはありませんか?
ワールドカップでの日本チームの活躍を職場の人達と話すときに、
いつも以上の高揚感を感じたことはありませんか?
 
「心」を揺さぶる特別なエネルギー。
このエネルギーは、一人だけでは発生させることができないのです。
外国で頑張っている日本チームのメンバーと「心」を一つにすることで、
職場のメンバーと日本チームに勝って欲しいと「心」をつなぐことで、
「心」が共振して莫大なエネルギーを生み出します。
 
一人一人異なる個々の「心」。
この「心」達が共鳴をすると、息を飲むほど素敵な「和音」を奏でるようです。