「世界」の「本質」の「紐解き」(その1)

1月5日に描いたブログ記事『「ルサンチマン」と「真善美」』に、
流鑚識眞さんという方からコメントを頂きました。
 
結構な分量で、400字詰め原稿用紙にして10枚以上の内容です。
 
コメントのタイトルは「真善美の探求【真善美育維】」となっており、
「生命」の「本質」について書かれていました。
 
長文でしたので、紙に印刷して拝読したところ、
非常に本質的なことが書かれていると直感的に感じました。
 
私も「人生とは?」「幸せとは?」「世界とは?」「生命とは?」という抽象的なことを
考え続けて、かれこれ4年。
 
そういったトレーニングの結果として、
少しは「本質」に迫るものへの目利きができるようになってきていると感じています。
 
さてそういった訳で、
流鑚識眞さん頂いたコメント「真善美の探求【真善美育維】」の
読み解きをしていきたいと考えている次第です。
  
ボリュームが非常にありますので、複数回に区分して内容を見ていきます。
 
今回は、最初のパラグラフ。
もし全文を見たい方は、下記ブログ記事のコメント欄をご覧下さい。
「ルサンチマン」と「真善美」
 
最初のパラグラフ。

【真理と自然観】
 《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。

これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。



“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。

すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”



私の背後には『空』があった。

空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。

私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。

この時, 我々は『空・から』という言葉によって

人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。





我々の世界は質感。



また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。

そして我々はこの世界の何処にも居ない。

この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰,

この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。

「真善美」の「真」について語られています。
まず、この最初のパラグラフについて「考察」を進めるつもりです。
もちろん、完全にばっちり読み解くことはできませんが、
私の理解と想像力が及ぶところまで内容を見ていきます。
 
結論から言って、真偽は人様々ではない。
個人個人に「真理」は宿らないということですね。
あくまで「真理」は、「世界」に属すると。
そして「真理」という「世界」の絶対ルールが全ての「個人」に例外なく作用するならば、
「個人」は「世界」の一部であると考えられるのでは?
 
歪みなき真理は何処にあるのか、と。

すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指さしたのである。

私の背後には『空』があった。
私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。
『空』の解釈は難しいですね。
『空』とは、「そら」でもなく、「からっぽ」でもないと。
そうではなくて、「私という意識」や「世界という感覚」そのものの原因のことであると。
 
「私という意識」や「世界という感覚」を生じさせる何らかの機構が、
『空』であるということでしょうか?
 
我々の世界は質感。
「質感」とは、「クオリア」のことでしょうか?
クオリア」とは、「意識」のみに許された感覚。
「赤」を「赤い」と認識することです。
本来、光には波長という数値が存在するのみで、
「赤い」とか「青い」とかいう感覚はコンピュータやロボットには認識できません。
我々「生命」だけが、「赤い」とか「青い」とかいう「クオリア」を有する訳ですね。
(「クオリア」について詳しくは、
 過去ブログ「【クオリア】ロボットは七色の虹に何を見るか」をご覧下さい)
 
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。
「真の形」とは、「イデア」のことでしょうか?
イデア」とは、プラトン哲学における「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」を指します。
頭のイメージでは存在し得る完璧な丸い円が、現実世界には決して存在しないように、
人々が「真」と認識する原型は現実の物質世界には存在しない訳です。
(「イデア」について詳しくは、
 過去ブログ「「イデア」の世界に連れてって」をご覧下さい)
 
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。
例えば、「リンゴ」には様々な肌触りや色合いのモノが存在します。
しかし肌触りや色合いのような違いがそれぞれにあっても、「リンゴ」は「リンゴ」なのです。
では我々が「リンゴ」と解釈しているものの正体は一体何なのか?
「真」の「リンゴ」というものが、物質世界ではない我々生命側の観念の世界に存在する訳です。
 
そして我々はこの世界の何処にも居ない。

この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰、

この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
「リンゴ」と同様に、「真」の我々もこの物質世界には存在しないと言っているのだと思います。
「私という意識」や「世界という感覚」を感じるカラクリこそが、我々の真の姿であると。
物質界に「リンゴ」は無数にあれど、「真」の「リンゴ」は一つであるように、
物質界に我々は無数に存在しているが、「真」の「我々」はたった一つであると、
言っているのではないでしょうか?
 
イメージとしては、
パソコン上のシミュレーションゲームでたくさんの人々が活動をしているが、
それらを動かしているプログラムはたった一つであり、
我々の真の姿をたどれば皆同じプログラムに行き着くということなのだと思います。
 
以上、最初のパラグラフは私的解釈だとこんな感じです。
次回以降も後続の文章を読み解いていくことで、
今回のパラグラフ自体の読み方にも変化が現れるかもしれません。
 
今日の所は、こんなところで。
 
「感覚」や「感情」に惑わされずに、「本質」を見抜く視点。
「本質」を追い求めていけば、きっと惑わされずに「人生」を歩いていけます。
「本質」を解釈した上で、「感覚」や「感情」を感じようとすれば、
最も味わい深く「人生」を頂けるのではないでしょうか?