「世界」の「本質」の「紐解き」(その2)

1月5日に描いたブログ記事『「ルサンチマン」と「真善美」』に、
流鑚識眞さんという方から頂いたコメントを解読しています。
なぜ解読しようと思ったかと言うと、この「世界」や「私」の成り立ちについて、
ものすごく本質的なことが書かれていると直感したからです。
 
4,000字以上の分量なので、複数回にわけて読み解いています。
今回は、第2回目です。
 

《志向性》



目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。

感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。

志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる

原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって,

再具現可能性という方向性を得たものである。



『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは,

 表象下に複数の因子が存在するということである。』



『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として

 意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』



我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し,

再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。

躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。

志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。

但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が

存在する可能性がある。
なお全文は、過去ブログ『「ルサンチマン」と「真善美」』のコメント欄にあります。
 
さて、このパラグラフは難解な文章が多いです。
一番最初の文章から順を追って見ていきます。
 
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。
我々「意識」を持つ「生命」の「目的」とは、過去に得た「感覚」を再び感じること。 ある「感覚」を再び味わうために、私たちは生きている。 その「感覚」とは、一体何なのでしょうか? 何らかの「経験」により得た「感覚」と書かれているので、 「経験」によって個々の目指す「感覚」は違うということなのだと思います。 いや・・・ 前回のパラグラフには、我々の意識の裏側には一つの共有する機構があると書かれているので、 目指す「感覚」は一つなのでしょう。 すなわち、我々「意識」はこの「世界」で得たよろずの「経験」を通じて、 目指すべき「感覚」をサーチし、そのサーチした「感覚」を具現化するべく活動している。  
感覚的目的地と経路、それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。

志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる

原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構、手段によって、

再具現可能性という方向性を得たものである。
ここで、このパラグラフの題名である「志向性」が登場します。 「志向性」とは、哲学者ブレンターノが提唱した哲学用語です。 ウィキペディアによりますと、 ブレンターノは、志向性について以下のように著書で述べています。
志向性とは意識のあらゆる活動、つまり心的現象の持つ特性であって、

心的現象は志向性によって物質的・自然的現象から区別される。
「志向性」とは、我々意識に特有の現象。 ウィキペディアでは、「志向性」について以下のように解説されています。
全ての心的現象は中世のスコラ学者が

対象の志向的(もしくは心的)内在性と呼んだものおよび、

完全に明確ではないが、

対象つまり内在的対象性と我々が呼ぶかもしれないものによって特徴づけられる。

あらゆる心的現象は、必ずしも同じようにではないが、自身の内に対象として何者かを含む。

表象においては何者かが表象され、判定においては何者かが肯定または否定され、

愛においては愛され、嫌悪においては嫌われ、欲望においては欲望され、…というように。

志向的内-在性は専ら心的現象が持つ特性である。

物質的現象はこのような特性を示さない。

したがって、心的現象はそれ自体の内に志向的に対象を有する現象だと定義できる。
すなわち、我々の「心」というものは、対象物なしには機能しないということです。 ですから、心的現象は対象を必ず有する現象ということになります。   今回頂いたコメント解読に戻りますと、 ある「感覚」を実現するために向かう目的地と道筋、手段。 その「感覚」の「実現」のために必要な原因を再具現できる能力によって、 我々「意識」の「志向性」は成り立っているようです。 (ここら辺は理解が曖昧なまま描いています。難解ですね(汗)。)  
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、

 表象下に複数の因子が存在するということである。』
「意識」の中で、目的の「感覚」が変化することによって、 その「感覚」を再具現化する道筋が複数存在するということは、 表象下に複数の原因が存在するということである。 「表象」とはやはり哲学用語であり、 外界にある対象を知覚することによって得る内的な対象をいいます。 (ウィキペディアこちら) 心の中で知覚する内的対象には、複数の原因が存在すると。 (ここら辺も難しいですね(涙)。)  
『因子は経験により蓄積され、

記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
表象下に存在する複数の原因は、経験によって蓄積されるもののようです。 そして、記憶の記録が開始した時点から、それらが意識に影響を及ぼしているとのこと。 この意識に影響を及ぼすということが、「志向性」の作用なのだそうです。  
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し、

再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。

躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。

志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。

但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が

存在する可能性がある。
ある「感覚」を再具現化する「志向」は、再具現を実現する身体という機構に対応する。 再具現が可能な因子と、身体に対応しない廃れた因子が存在する。 また、身体に対応していても、意識内で対応する対象がない場合もある。 ただし、そういった体や意識内の対象物が対応しない因子であっても、 「意識」を介さずに「思考」に直接作用する物があるようです。   以上、第2パラグラフを私なりに読み解いてみました。 う〜ん、今回は消化不良です。 私も抽象的な思考は得意な方だと自負していますが、 「哲学」に関わる文章は、本当に骨がありますね。   さて、これからも「哲学」に関わる知識を私なりに解きほぐして、 皆さんにお伝えできればと思います。 「哲学」には「生きる」上で重要な「知識」がたくさんあると感じており、 それを多くの人に伝えたいと想うからです。