「雑談」の「意味」

日々「考察」。
日々「発見」。

改めて考えると、自分って結構すごいなって思います。
 
日々「考察」して、日々「気づく」ことがある。
日々「成長」の機会に恵まれている。
 
これは多分、自分に与えられた「素直さ」という「才能」のお陰だと思う次第です。
 
「心」を硬直させない。
一日一日を、日々「新たな目」で見つめることができる。
 
 
・・・すみません。ここまで自画自賛でした。
 
もちろん、人より劣っている部分があるので、
私は日々手探りで必死に進んでいるという感もあります。
 
私は、「感じる」ことが苦手です。
だから、普通の人が直感的に理解していることでも、
私は一旦「思考」を通さないと理解できません。
 
イメージは、視力が弱く耳から聴こえる音に頼って生きているような、そんな感覚です。
 
普通の人が当たり前に見ることができるものでも、
私は「音」からしかその実体をつかめません。
 
まあ逆に、人とは違う感覚器を鍛えたので、
「人生」や「世界」や「幸せ」や「雑草」に興味を持ったり、
他の人には見えづらい風景が見えるようになっているかもしれないなと思う次第です。
 
さて私は最近、「雑談」の「意味」に気づくことができました。
 
今までの私にとって、「雑談」は「無価値」でした。
「なんでこんなに非生産的的なことをやらないといけないんだ?」と思っていました。
「雑談」は年賀状みたいなもので、儀礼的にやるものだと考えていた次第です。
 
ですから、職場でなされる「雑談」には不快感を持っていました。
「ちゃんと仕事をしろよ」という感じです。
 
しかし最近、「雑談」の「意味」を知ることができました。
それは、相手に「関心」を持つことです。
すなわち「愛」の発信です。
 
職場での仕事は「個人プレー」ではありません。
「チームプレー」です。
メンバー同士の「連携」が必要となります。
 
しかし、私は「他者」との「連携」がめちゃくちゃ苦手です。
過度に恐縮したり、過度に無関心だったり、過度に貢献しようとしたり、
「他者」との間合いが全く見えません。
要するに「自分本位」なのです。
「相手」を全く観ていません。
 
「自分」しか観ていなければ、「連携」なんて不可能です。
 
コウモリやイルカは、超音波を発して、その場の地形を把握します。
自身の発した超音波の跳ね返りをキャッチして、障害物と自分の距離を知るのです。
 
「雑談」も一緒だと得心しました。
メンバーと「連携」するには、互いの「心」の「間合い」を知ることが必要です。
その「間合い」を把握するために、
私達は「関心」という超音波を相手に発信しています。
そうして、相手から帰ってくる「言葉」をキャッチして、
相手との、その日の「間合い」を知る訳です。
 
それが「雑談」の「本質」だと、私は考えます。
 
もちろん仕事をないがしろにして「雑談」ばかりに興じるのは本末転倒です。
あくまで「雑談」の「本質」を理解して、
気持ちのよい「チームプレー」のために「雑談」を使っていく感覚が理想的だと考えます。
 
「雑談」のない職場は、
競馬で馬に装着する「斜眼帯」をつけて仕事をしているようなものです。
「斜眼帯」は、
神経質な馬の視野から周りの馬の風景を遮断するために馬に装着します。
そうすることで、馬は進行方向しか見えなくなる訳です。

 
競走のような「個人プレー」なら「斜眼帯」も「あり」でしょうが、
私達の仕事のほとんどは「連携プレー」を必要とします。
 
サッカーやラグビーで「斜眼帯」をつけていては、
「仲間」へのパスも十分にできなくなってしまう訳です。
そんなチームがあったら、試合には勝てません。