その先に「幸せ」はあるか?

このブログは、苦しんでいる人のために描かれています。
 
今日は、「鬱」で悩んでいる方への提案です。
 
あなたの生きる道。
その先に「幸せ」はありますか?
 
「ない」と答える方や、
「わからない」と答える方が多いのではないでしょうか?
 
「ある」と答えられる方は、きっと「鬱」ではないと思います。
なぜなら、その先に「幸せ」があるとわかっていれば、
きっと頑張れるから。
「鬱」とは平たく言えば、頑張りたいのに頑張れない状態のことです。
 
私は今、その先に「幸せ」が「ある」と答えられます。
それは、新しい職場のお陰です。
社員を投資商品のような「モノ」として見るのでなく、
「心」ある「生命」として見てくれる職場。
仕事のボリューム自体は多く、頂いている期待も大きいため、「楽」ではありませんが、
お陰様で「楽しく」仕事をしています。
そういう環境に身を置いた時、私は頑張れる自分に気づいたのです。
 
上記のようなことに思いを巡らしていた時、
「鬱」から脱出する方法は、これだなと感じました。
 
すなわち、頑張った先に「幸せ」がないと感じていれば、
頑張らなければいけないという義務感はあったとしても、
「心」は「違う」「違う」と唱え続けるので、頑張る気力自体は枯れてくる訳です。
 
じゃあ、「鬱」の人は皆、先に「幸せ」があると「信」じればいいのかもしれませんが、
物事はそう簡単ではありません。
 
まず大変なのは、自分にとっての「幸せ」とは何かを理解することです。
「幸せの青い鳥」の童話のように、最初「幸せ」の正体はベールに包まれています。
 
私は、この「答え」を見つけることこそが、人が生まれた「意味」だと考える次第です。
ブッダの言う「悟り」も、平たく言えば「幸せ」とは何か?ということなのだと思います。
 
ですので「鬱」から脱出するためには、
私達「生命」に投げかけられたこの最大の謎を「考察」することが必要なのです。
 
世間に流通する安直な「答え」は、フェイクだと考えます。
追求すべきは、奪い合う「有限」の「モノ」ではなく、
分かち合う「無限」の「心」なのだと、私は考察する次第です。
「モノ」はあくまで「手段」であり、
「目的」にしてしまうとゴールがわからず迷走します。
 
まあ、上記の「幸せ」に関する私の考え方は、私が「考察」した結果に過ぎないので、
あなたの「答え」は、あなたが出す必要がある訳です。
しかし、「考察」を深めていけば、
誰しも上記の方向性(「モノ」より「心」)に考えが及ぶのではないかなと予想します。
「モノ」をとことん持ったり、「欲」をとことん満たしたら、
はてそれで本当に「幸せ」でしょうか?
「モノ」はそこそこ持っていればよく、もっと追求したいものがあるんじゃないですか?
そういう思考実験を繰り返していけば、あなたの「答え」は見えてくると思います。
 
さて、そうやって「答え」や「仮説」を出したなら、後は実践です。
もしあなたの「答え」が、
有限な「モノ」ではなく、無限の「心」にこそ「幸せ」があるというものであったなら、
何事にも拘束されずに軽やかに環境を変えることができると思います。
環境を変えないまでも、有限の「モノ」を奪い合う輪廻から外れることができるので、
軽やかに本当に必要なものをとりにいく生き方をデザインできるでしょう。
 
あなたのその先に「幸せ」はありますか?
 
暗闇の中、進むべき道がわからなくて泣きたくなった時こそチャンスです。
そういう時に人は、余計な情報や欲を脱ぎ捨てて、「心」の声に耳を傾けます。
 
自分は本当は何を欲しいのか?
自分は本当は何をしたいのか?