「自分への関心」「相手への関心」

先日このブログで、
「嫌われる勇気(岸見 一郎/古賀 史健:著)」という
70万部販売のベストセラー本の内容を一部紹介しました。
「正しい」は、危険物』という記事です。
 
この本は、アドラー心理学という心理学を対話形式で説明しています。
アドラー心理学は、アルフレッド・アドラーによって創始された心理学で、
欧米での人気は抜群なのだそうです。
多くの自己啓発書の源流ともなっています。
アドラー心理学ウィキペディアは、こちら)
 
今日はこの書籍の中から、
「自らの居場所」を得るために何が必要なのかということについて、
ご紹介していきたいと思います。
 
さて「幸せ」とは何かということを考えたときに、
「自分の居場所」があることは、とても大切なことではないでしょうか?
例えば、家庭に「自分の居場所」がないお父さんがいたとしましょう。
身を削る仕事から帰ってきて、家に居場所がなければ、
自らの「心の羽」を休めるところがないということになる訳です。
 
これは、本当に辛いことだと思います。
会社でも家でも、飛び続けなければいけない。
本当に「心の羽」を休ませることができるのは、
寝るときと一人で風呂に入っている時だけ。

そんなような場合はもしかしたら、
家族を持たずに一人暮らしをしていた方がよかったかもしれませんね。
もしくは、家庭の中に「自分の居場所」を創るかです。
 
あるいは、外に上手に「仲間」という「自分の居場所」を創る人もいます。
それは、趣味の「仲間」かもしれませんし、
もし職場が「自分の居場所」であれば、これほど恵まれたことはないでしょう。
「仲間」のために「自分のエネルギーとパワー」を存分に発揮することは、
とても生き甲斐のあることだと思いませんか?
 
そう考えていくと、「自分の居場所」を創るというスキルは非常に重要です。
 
その「自分の居場所」の創り方が、
「嫌われる勇気(岸見 一郎/古賀 史健:著)」に記載されていました。
この書籍によれば、
「自分の居場所」を創るためには、
まず、他者を「敵」と見なすか「見方」と見なすかが、重要です。
 
私達は本能的に、自分や血縁以外の他者を「敵」と見なします。
なぜなら私達の「本質」の半分は、「利己的遺伝子(Selfish Gene)」だからです。
(「利己的遺伝子」について詳しくは、
 過去ブログ「遺伝子(種)と命(個)の闘争」をご覧下さい)
 
基本的に私達人間同士は、自分の遺伝子を次代に残していく上で競合関係にあります。
ですから、「本能」である私達の中の「利己的遺伝子(Selfish Gene)」は、
他者を警戒するのです。
 
ただ、こんな猜疑心に満ちた生活を続ければ、「心」は消耗します。
私達の「本質」の半分のもう一方は、「心」です。
「心」は、「利己的遺伝子(Selfish Gene)」がもたらす猜疑心的環境に
「自分の居場所」を見つけることができず、「不幸」を感じます。
そして、「心」はその「不幸」への「あがき」として、
「他者も仲間である」という「ミーム(Meme)」を創り出したのです。
ミーム(Meme)については、
 過去ブログ「ミーム(Meme)−社会の本質−」をご覧下さい)
 
この「仲間」という「ミーム(Meme)」は、
「猜疑心」を原因とする「不幸」への特効薬となり、
「宗教」や「道徳」という形で、瞬く間に私達人間社会の中で増殖していったのです。
 
しかし、私達の「本質」の半分である「本能」を捨て去ることもできません。
私達は「他者は敵」というアレルギー反応を抱えつつ、
「他者も仲間」という特効薬を手元に置いて、日々生きているのです。
特効薬を飲むかどうかは、最終的には私達の「選択」に委ねられています。
もちろん他者は私達を傷つけることもしますので、
「他者も仲間」が絶対的な正解ではないことに、留意が必要です。
それでも「自分の居場所」がないことが本当に苦しいのは、間違いありません。
それは、私が「他者を味方」と見なさずに生きてきた実感です。
 
さて、この「他者を味方」とする特効薬の飲み方が、
「嫌われる勇気(岸見 一郎/古賀 史健:著)」に明記されています。
それは、「自己への執着(self interest)」を、
「他者への関心(social interest)」に切り替えていくということです。
 
このことは、ずっと「仲間」を作らずに生きてきた私の実感ベースからも納得できます。
 
例えば、私は「承認欲求」が強いです。
これは、「他者への関心」が強いと見せかけて、
「自分がどう見られているか」ということにしか関心がないことを示します。
 
例えば、人に謝罪するときも、
「自分がどう見られているか?」ということを気にしているのです。
「相手が自分を許してくれたかな?」ということにばかり意識が向かい、
いつも笑って許してくれるおおらかな人には、ほとんど謝罪もしません。
 
例えば、人に感謝するときも、相手の反応を気にして行うことも多いです。
食事をご馳走してもらったときの翌日のお礼を言うのは、
自分が非礼な人間だと思われたくないからだったりします。
 
例えば、他者の髪型が変わったことを指摘するのも、
そうした方が組織の中で円滑に生きていけるだろうなという打算があるからです。
「その人の生活に何が起きたんだろう?」とか、相手に対する関心はありません。
 
このように見ていくと、私は「自己への執着(self interest)」ばかりで、
「他者への関心(social interest)」が全くないことがわかるのです。
 
これでは、人の集まりの中に「自分の居場所」なんて創れません。
 
今まで「なんで自分は人の輪の中に入れないのだ?」と悩んでいましたが、
「他者への関心」がなかったからなのです。
 
職場での昼食時、私は一人でいる方が「自分の居場所」を感じ、
「心」を休めることができました。
しかし社会で生きるということは、人との関わりの中で生きるということ。
職場の人の集まりの中に「自分の居場所」を創れなければ、
本当の意味で「人生」を「幸せ」に生きることはできないのだと想います。
 
確かに自分一人だけの「自分の居場所」というのも、気楽で快適です。
しかし、「仲間」の中に「自分の居場所」を見出すということは、
きっと「人生」の中でもとても素敵な体験に違いありません。
 
まずは「他者への関心」を持つこと。
「愛の反対は無関心」というマザー・テレサの「言葉」もありますし、
相手のことを自分のことのように知りたいという気持ちを持ちたいと想います。
 
ただ、これは難しい部分もありますよね。
例えば、噂好きの人には、あまり自分のプライベートを教えようとは思わないですよね。
それは、その人が知りたいのは自分でなく、
自分にまつわる「情報」だからだと思います。
他の人に噂をばらまきたいから、ネタとなる「情報」が欲しいだけなのです。
結局、噂好きの人は、その人自身に関心はありません。
 
 「私は、あなたのことを、自分のことのように関心があります」
 
こんなスタンスで、人と関わっていくのがよいのでしょう。