「自分」を「幸せ」にするのは誰?

突然ですが、あなたに質問です。
「自分を幸せにすること」と「他者を幸せにすること」
はたして、どちらが簡単だと思いますか?
 
私は、断然「他者を幸せにすること」の方が簡単だと考えています。
例えば、他者を「幸せ」にするためには、
(1)相手を理解しようと努めて、相手のよい部分を見つける(悪い部分は無視)
(2)相手のよい部分を評価して褒める
という手順を踏むだけでよい訳です。
 
上記の(1)(2)のどちらの過程においても、相手は「幸せ」を感じます。
すなわち、「承認」と「賞賛」ですね。もっと端的に言えば「愛」。
「モノ」や「お金」をあげなくったって、「人」には「人」を幸せにできる力がある。
 
一方、「自分を幸せにする」ためにはどうすればよいか?
自分を「承認」すればよいのでしょうか?
はたまた、自分を「賞賛」すればよいのでしょうか?
無理ですね。自分のことを知りすぎているから。
「自分」に嘘をついて「承認」や「賞賛」をすることはできない。
自分が自分を「幸せ」にするためには、
自己実現」するなりして本当に自分を変えないといけないのです。
 
このように見ていくと、
「他者を幸せにする」方が「自分を幸せにする」よりも簡単なことがわかります。
「人」には、他者を「幸せ」にできる「素敵な力」があるのです。
気づいていましたか?
あなたには、そんな「ディズニーの魔法」のような「不思議な力」があることに。
 
ですから、世界を「幸せ」にするためには、
「人」が「人」を互いに幸せにし合うことが一番効率がよいのです。
しかし今「資本主義」の影響で、
自分を「幸せ」にするのは自分の自己責任という意識が蔓延しています。
自分を「幸せ」にするので手一杯だから、他者に「心」を与える余裕もない。
 
私は、究極的には「モノ」も「心」も「与え合う」世の中が極楽だと信じています。
しかし、現実的に考えると、
生活もあるし将来への不安もあるし「モノ」を手放すのは難しい。
であるならば、せめて「心」を「与え合う」ことで、
「世界」や「自分」が「幸せ」になれるという認識が広まって欲しいと切に願います。
 
今の世の中は、
「心」に飢えすぎて、相手の「心」を「傷つける(奪う)」人がとても多い。
しかし、「心」というものは奪っても奪っても満たされることはありません。
逆に、奪えば奪うほど「心」の飢えは更に拡大していきます。
さながら、仏教の「餓鬼道」のごとくです。
(「餓鬼道」とは、生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が
 死んで生まれ変わる世界のこと:ウィキペデイアより) 
 
ちなみに、餓鬼道に落ちた人々は3つのランクの餓鬼になるそうです。
(1)「無財餓鬼」
(2)「少財餓鬼」
(3)「多財餓鬼」
  「無財餓鬼」の人々は、一切の飲食ができない餓鬼です。
  飲食しようとするものはすべて炎となり、常に貪欲に飢えています。
  一方、「多財餓鬼」の人々は、多くの飲食ができる餓鬼です。
  富裕餓鬼ともいいます。ただしどんなに贅沢はできても満足はしません。
 
なんだか、現実世界を見ているようなそんな気持ちになるのは私だけでしょうか?
現代の「資本主義」という「哲学」は、強欲な餓鬼を増産しやすいように感じます。
 
 あなたは今「幸せ」ですか?
 日本社会は今「幸せ」ですか?
 世界は今「幸せ」ですか?
 
 「資本主義」で人々は「幸せ」になれますか?
 
あなたや多くの人が、もし「幸せ」でないと答えるならば、
「資本主義」に代わる「哲学」を検討すべき時なのかもしれません。
 
「世界」を「幸せ」にするために、私は「与え合う哲学」を提唱したいと思います。
「モノ」が難しいのなら、まずは「心」から。
 
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