「偽善」は存在するか?

私は「偽善」という言葉が嫌いです。
「偽善」という言葉を使うくらいなら、
それは「悪」だよって言った方が、
よっぽど潔いと思います。
 
「偽善」という言葉は、
誰かを否定するために生まれた言葉です。
そして「善」を為そうとする者の足を、強力に引っ張ります。
  
「偽善」という言葉が、
建設的な効果を発揮することなんて、
ほとんどないはずです。
 
大体「善」と「悪」が、
オセロの駒のように白黒はっきりわかれることなんて、
あり得ないと思います。
 
全ての行為はグレーであるはず。
 
その前提を無視して、「偽善」を叫ぶ者は、
「あの者の動機は完璧な白ではない!」と主張します。
 
でも私は、
完璧な白なんてあるものか、と思うのです。
 
完璧な白の駒を打てるのは、
神のような概念的存在のみだと考えます。
人間は有機的でアナログな存在であり、
常に白と黒の混沌の中にあるはずです。
 
そんな混沌の中にあっても、
白の駒を打とうとするその行為、その意思こそが、
「善」と言えると考えます。
 
人間は、常に発展途上の存在です。
どんなに白く見えようとも、まだまだ白くなる余地があるし、
どんなに黒に近いグレーでも、白を目指しているのであれば、
そこに「善」が宿っていると、私は考えるのです。
 
ウィキペディアで、「偽善」という言葉を調べてみました。
書かれていた「偽善」の意味は、以下の通りです。

偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。
また、これを行う者は偽善者とよばれる。
外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、
虚栄心や利己心などから行われる事を指している。

なるほど、虚栄心や利己心から「善」を行うと、「偽善」となるようです。
虚栄心は、自分をよく見せたくて・・
利己心は、自分に見返りが欲しくて・・
といったところでしょうか。
 
「善」を為そうとしたとき、
そこに「自分」という視点があると、
「偽善」と非難されるんだろうなぁと思います。
 
逆に、「相手」のことを想って、あるいは心配して、
「相手」の手助けをする行為は、「善」であるんでしょう。
 
要は、「相手」のことを想っての行為なら、それは白。
「自分」という視点で為す行為なら、それは黒。
 
まあ、そう考えると、完璧な白ってあるような気がしてきました。
自己犠牲の行為なんて、その典型でしょう。
川で溺れている人を助けるために、自らも川に飛び込む。
これを「偽善」という人は、よっぽどひねくれていると思います。
 
驚いた。
人間は、完璧な白の一手も打てるのですね。
 
このように考えていくと、私は「心身二元論」を想起してしまいます。
つまり、心と体は一体ではなく全く別物という考え方です。
 
心身二元論」の対となる言葉として、
「心身一元論」という考え方があります。
これは、心は脳の起こす現象に過ぎず、
全ては物理科学で説明できるという唯物論的な考え方です。
 
心の全てが、脳の混沌としたネットワークからもたらされるとした場合、
そこから完璧な「善」が生まれるのかな?と疑問に感じます。
 
0%から100%の「善」がランダムで選ばれる場合、
100%の「善」を引き当てる可能性なんて、ゼロに近いはずです。
今まで生きてきて、98.3%が最高記録だった、というような感じになると思います。
 
しかしその気になれば、100%の「善」を容易に繰り出すことができるのなら、
プラトンの提唱するイデアがそこに存在するとしか言いようがありません。
イデアとは簡単に言うと、この物理世界には存在しない、
物事のお手本あるいは原型のことです。
例えば完璧なリンゴを頭の中に思い浮かべることができますが、
実際の世界にはそんな完璧なリンゴは存在しません。
この世界にあるリンゴは、頭の中で想起できる理想的なリンゴの劣化版コピーなのです。
イデアについて詳しくは、過去ブログ「イデアの世界に連れてって」をご覧ください)
 
私たちの心が、この物理世界とは違うイデア的な「観念の世界」にあるとした場合、
100%の「善」を繰り出せることへの説明はつきます。
 
私たちの心がイデアの住人であるのなら、
そこにあるのは100%の「善」。
それなら、本物の「善」と偽物の「善」を、直感的にかぎ分けられるはず。
 
であるならば、「偽善」という評価も正当な評価なのだと、私は考え直しました。
 
私たちは「善」を知っている。
だから「偽善」を為すことなく、本当の「善」を為すよう努めていきたいと、
私は考えます。