「托鉢(たくはつ)」という修行で得られる効果とは?

「托鉢(たくはつ)」を見たことがありますか?
以下の写真のように、よく駅前でお坊さんがやっている修行の一つです。

 
この「托鉢」には、どのような意味合いがあると思いますか?
ウィキペディアによりますと、
信者の家々を巡り生活に必要な最低限の食糧などを乞い、
信者に功徳を積ませる修行なのだそうです。
もともと、托鉢には2つの意味合いがあります。
一つは「所有欲」の否定。もう一つは「修行への専念」です。
修行に専念する僧に、信者が食料等を分け与えてサポートすることで、
信者も功徳を得ることができる仕組みです。
 
私は、昔一度だけ托鉢をしているお坊さんにお金を喜捨したことがあります。
自分の良心で許せないことをやってしまい、
心がいてもたってもいられず、駅前にいたお坊さんに喜捨をさせて頂きました。
当時は、何か罪滅ぼし的な気持ちで行った行為ですが、
「所有欲」の放棄という「幸せ」への功徳を積む意味合いがあるのなら、
当時の行動はある意味間違ってはいなかったのでしょう。
 
さて、「托鉢」という行為は「乞食行」とも呼ばれ、
最低限の物資で生きるという「所有欲」の否定を体現しています。
そのように考えると、
ベンツを乗り回すお坊さんに戒名をもらっても、
あまり有難くないような気もする次第です。
また、テレビや電車の中刷り広告で宣伝をしているような
お金持ちの宗教団体もいかがなものかと思ったりします。
 
そんな団体のお坊さん達よりも、
駅前で托鉢の修行をされているお坊さんの方がよっぽど真面目です。
 
さて、見知らぬ人にモノを乞うという行為は、
「愛」の反対の「信」の修行だと私は思うのです。
普通の大人には、人にモノを乞うだなんてプライドが邪魔をしてできないと思います。
しかし、無邪気な子どもだったらできるでしょう。
 
そういう意味では、「托鉢」のような「乞食行」は、
現代人に必要な修行かもしれないなと思います。
そこで、日本人には「お遍路」という修行がある訳ですね。
どんなに偉い政治家であっても道行く民家の方から施しを頂いて頭を下げる。
 
そう言えば、「お遍路」が好きな元総理がいましたが、
修行の成果は出たのでしょうか?
私には、その成果は見えません。
プライドを捨てられたようには見えませんし、
イライラして当たり散らしているようでは人への「信」もまだ見えていないのではないかなと。
 
何事も本質を見ずに動くのは効果が薄くなると思います。
「お遍路」に行くのなら、
それによりどんな効果を得られるのか自分なりの仮説や目標を立ててから行くべきでしょう。
漫然と行って得られるものなんて、たかが知れている。
これは、「写経」とか、今はやりの腕に巻く「数珠」でも一緒です。
「写経」するなら、ちゃんとその経文の意味を「心」で知ってからやるべきだと思います。
また、何の功徳も積まないのに「数珠」を巻いただけで
何のパワーを得られるというのでしょうか?
 
仏教は、もともと非常に科学的な哲学であり高度な学問です。
ですから昔は、学のない庶民には形から教えるしかなかった。
しかし今は皆、学を持っている時代です。
せっかく仏教に接するのなら、きちんと元々の意味や本質を知ってからの方が、
お金と時間をムダにしないで済むのではないのかなと思ったりします。
 
現代日本人の仏教への接し方を見ていると、本当にもったいないです。
仏教の「教え」は、現代を生きる上でのまさに「バイブル」になると私は考えます。
新興宗教に騙されたりしないで、自身の頭や「心」で考えて、仏教を活用するのです。