人に「関心」を持つには、どうしたらよいか?

マザーテレサの言葉。
「愛の反対は無関心」
 
上記から、「愛=関心」ということが見えます。
 
では「関心」とは何かというと、
その人の生活環境とか家族との出来事とかそういうことも大切ですが、
とりわけ大きなポイントは、その人の「感情」ではないでしょうか?
 
なんで、この人は怒っているのかな?
この人は、何に悲しんでいるのだろう?
今日は楽しそうだな。何かいいことがあったのかな?
この人は、何に喜んでくれたのだろう?
 
その人の出来事を聴くにしても、
その話を楽しそうに話しているか?
その話をして喜んでいるかどうか?
といったことを意識しないで聞くことは、
単なる詮索ととられてしまうと思います。

ですから向けるべき「関心」の対象は、
その人自身の「本質」である「感情」であると考える次第です。
 
じゃあ、その「感情」に「関心」を持つためにはどうしたらよいか?
「人に関心を持とう!」と言うかけ声だけで、
簡単に「関心」を持てるものでもないと思うのです。
 
気づくと、どうしても「関心」は自分に向かってしまいます。
いつの間にか、「観て!観て!」「聴いて!聴いて!」モードになる訳です。
 
まず一つには、自分が十分に子どもの頃に「観て!観て!」「聴いて!聴いて!」を
親から満たしてもらわないと、
その自分への「関心」を人に向けるのは難しいかもしれません。
自分の「愛」のコップが満たされなければ、
人に「愛」を向けることは難しいと考える次第です。
(関連過去ブログ:児童虐待が連鎖する訳
 
でもそれでは、子どもの頃に親から十分に自分への「関心」を持たれなかったら、
「ああ、じゃあ仕方ないね」というのも諦めが早すぎると思います。
 
何か違う方法で、人に「関心」を持てないものだろうか?
 
う〜ん。
「この方法でいいのかな?」という感がありますが、
一つ方法を思いつきました。
 
それは、「縁」のある人に「喜怒哀楽ノート」をつくること。
この人は、どんな時に怒り、どんな時に笑い、どんな時に悲しんでいるのか?
そんな人間観察ノートをつくれば、自然にその人に「関心」が向くのではないでしょうか?
 
「人間観察」
それが、本当に人への「愛」につながるかわかりませんが、
まずは、最近人間関係でトラブルのあった人の「喜怒哀楽」の項目を
埋めてみようと思います。
 
少なくとも埋めている間は、その人のことを考えている訳ですし、
同じ空間にいるときには、その人の「喜怒哀楽」の状態に興味がいくはずです。
 
うん、これでその人に強制的に「関心」を持てるかもしれない。
そして、最初は強制的なところから、
いつしかその人を「観る」ことを楽しくなるかもしれません。
 
今日早速ノートを買って、埋めるべき項目を検討したいと思う次第です。
 
ところでこの一連の試みには、「好奇心」が重要なエンジンとなります。
「好奇心」の薄い人は、何かを「愛」することが苦手なような気がするのです。
 
ISISのような原理主義者達。
狂信的な新興宗教の信者達。
自分達の教義以外に「好奇心」を示さない人達の、「愛」を感じない薄ら寒いあの感覚。
 
「好奇心」は、思っている以上に人類にとって重要な「宝」かもしれませんよ。