「共産主義」の失敗

昨日のブログで、
世界の「弱肉強食」のルールを覆すことが人類の存在意義であるという意見を描きました。
 
今日は、その「弱肉強食」のルールを覆そうとした人類初の試みである
共産主義」のお話しをしたいと思います。
 
とは言え、マルクスの「資本論」をちゃんと読みこなしている訳でもないので、
あくまで私論という形でお話しを展開したいと思います。
 
共産主義」とは、ウィキペディアによると、
より平等な社会の実現を目指すために、私有財産制度の全部または一部を廃止し、
財産や富を共有することを目指す思想や運動のことだそうです。
 
私は、共産主義の発想自体は好きです。
「持たざる者」もしくは「搾取される者」という弱者を、
救済しようとする「優しさ」があるからです。
 
共産主義は、それまでの世界の体制へのアンチテーゼでした。
「富」がごく少数に独占されていた世界に対して、「富」の分散・共有を提唱しました。
また、「人のあり方」が「神」や「宗教」に牛耳られてしまい
「人」の「世界」への関わり方が受動的であった時代に対して、
「人間の理性」に基づいて自主的に合理的に「世界」に働きかける「人のあり方」を提唱しました。
 
共産主義」の目指す理想の世界像は、そんなに悪くないものです。
実現したら結構ユートピアな世界になりそうな気がします。
 
しかし、「共産主義」は失敗しました。
 
なぜ、失敗したのか?
私の考えでは、理由は大きく分けて2つ。
(1)平等を実施する主体の誤り
(2)「人」の本質の見誤り
 
<平等を実施する主体の誤り>
 財産や富を平等に共有するため仕組みは、政府が作り政府が運営します。
 こんなに大きな利権を一部の人が独占したら、必ず欲にとらわれるでしょう。
 せっかくブルジョアから取り上げた富や財産を、
 今度は政府が牛耳ったら結局何も変わりません。
 いや、権力が一極集中するので恐怖政治も行われやすくなり、
 社会の質はより悪化していくのではないかと思われます。
 その点、富の分配を「神の見えざる手」に委ねた市場経済はクリーンですね。
 
<「人」の本質の見誤り>
 共産主義では、「人」という存在を一律全部同じモノとして見ているように感じます。
 というか、「人民」は疑うことを知らない政府のお人形であった方が望ましい。
 だから、人民解放軍ポルポトによって、知識人の粛清が行われました。
 こんなことをやっていたら、資本主義国家に技術力や経済力で負けるのは当たり前。
 「国」は「人」なり。
 「人」が活き活きと才能を発揮できる環境にあれば、「国」も生きてきます。
 「人」の幸せは、「富」や「財産」のみにあらず。
 「人」の幸せは、政府から機械的に与えられるものではなく、
 むしろ自身の個性を活かして他者に与えることで獲得できます。
 共産主義は、「人」が一人ひとり全く違う個性を持つ人間で、
 それぞれ輝かしい才能を持っているという見方をしていません。
 共産主義の定義では、「人」はあくまで国の「労働力」に過ぎない訳です。
 これでは、個々の「人」は、「共産主義」の下では幸せになれません。
 例えば、おしゃれをしたくても「人民服」を強制され、「個性」は殺されます。
 
理念はともかく、実態を見ると「共産主義」はネットワークビジネスみたいなものです。
「国民」を騙して、新たな既得権益を構築して独占したい人々が
共産主義」という看板を掲げていたに過ぎないように思います。
 
結局、「人間の理性」を活かして「弱肉強食」のないユートピアを実現しようとした
共産主義」という試みは見事に失敗してしまいました。
やはり、常に「強者」側であるトップが、
「弱肉強食」を無効にしようとしても無理があるんでしょう。
 
私は、何か「共産主義」に代わる「弱肉強食」無効化策を模索したいなと思っています。
例えば、トップダウンではなくてボトムアップで、
草の根の有志が多く出現し「心」とか「富」とかを弱者に与える社会を実現できたら、
素晴らしいユートピアが実現できると思うんですよね。