「感情」の乏しい者の利点、「感情」の乏しい者の悲哀

私は「感情」の乏しい人間です。
 
人から褒められても、その人の期待に応えるべく無理に喜ぼうとして、
変な感情表現になってしまったり。
人からバカにされても、何も感じなかったり。
悲しまなければいけない場面で、うまく悲しめなかったり。
皆で楽しんでいる場面で、「心」の底から本当に楽しんでいるのかわからなくなったり。
 
そんなふうに、ちゃんと「感情」を感じられない私ですが、
感じることができない分、頭では「感情」を理解しようと必死になる訳です。
 
「理論」で、「感情」や「心」といったものを理解しようとすると、
それは「言葉」になり、そして私の場合は「ブログ」となります。
「感情」や「心」はアナログな概念ですが、
それを私はデジタル信号に変換してネットの海に情報伝達しているのです。
それは、ネットを介して不特定多数の人の「心」に、
「感情」や「心」に関する問題提起等を感じてもらうことを意味します。
 
例えるなら、CDプレイヤーは
自身の流す「音楽」をデジタルな数字としてしか認識できない訳ですが、
CDプレイヤーが流す「音楽」を聴いた人々の「心」には、
アナログな音楽としてキャッチされ「感情」を想起させることが可能というような話です。
「感情」の乏しい者の利点の一つは、
「感情」の豊かな人にはアナログな情報としてしか処理できない「感情」や「心」を
客観的に冷静にデジタルな情報として変換できることにあると思います。
実際に「感情」の乏しい私が描いたブログ記事に対して、
「涙が出た」とコメントを頂いたこともあるのです。
インターネットが発達したこのご時世において、上記の利点は十分活用の余地があります。
 
さて今日のブログのテーマは、「感情」についての考察です。
私が考えるに、「感情」には「インプット」と「アウトプット」の2つがあります。
 
「インプット」は、相手の「感情」を感じる力。あるいは共鳴する力。
「アウトプット」は、自分の「感情」を感じる力。あるいは表現する力。
 
こういった「感情」の入出力ができない自分のような人間のことを、
人は「つまらない人間」と感じるかもしれないし、
「冷たい人間」と感じるかもしれない。
人は「頭」でなく「感情」でつながる存在です。
「感情」の共鳴ができなかったり、「感情」の表現ができなければ、
実感を伴った本当の意味で、人とつながることはできません。
 
「人とつながりたい」
この欲求は、私の第一優先となっています。
人とつながることに飢えているのです。
ですから「人とつながること」さえ満たされていれば、他の条件はどうでもよくなります。
今の職場は、本当にハートフルな人々ばかりで、私はとても満足しており、
メンバーとして「価値」を発揮して働くことさえできれば、
私は極端な話、お給料や勤務時間はどうでもよいと感じている次第です。
 
そして今の職場の目指すヴィジョンは、仲間同士の「つながり」を創造することにあります。
私は、このヴィジョンに大きく賛同すると共に、
この大切な職場を破壊しようとする行為や、このヴィジョンを無視した行動には、
強い反発を覚える次第です。
 
「感情」の乏しい私ですが、その時々の一時的な「感情」に流されることなく、
冷静に自分の捉えた「本質」をブレずに追うことができるのは、
「感情」が豊かな人にはない利点だと考えています。
そういう意味で「感情」の乏しい人は、
無私の観点で全体の公的なものを護ることに長けているのではないでしょうか。
 
ただ、「感情」が乏しい人が過ごす「人生」の風景は、
モノクロで寂しいものだと私は考えます。
やはり、「感情」が豊かな人になって、「人」との「つながり」を最大限に楽しみ、
極彩色豊かな「人生」を送ることが、私の切なる望みなのです。
 
願わくば、
今までの「感情」の乏しい「人生」で培った
冷静に「本質」を追究する「強み」を保持しながらも、
現在の職場体験等を通じて、
「感情」の豊かに感じられる人にだんだんなっていきたいなと思います。
それは本当に「生まれてよかった」と「心」から想える、
涙の出るような私の「人生」のゴールなのです。