どう生きたいか?

「どう生きたいか?」
 
この自分への問いかけは、
「どうなりたいか?」と共に、とても重要な「人生」の問いかけだと思います。
 
皆さんは生きている中で、幾度となく分岐点を経験してきたのではないでしょうか?
私達は、その分岐点の中からどれか一つを選び続けて、今まで生きてきました。
 
その選択の基本は、「自分はどうしたいか?」です。
例えば、目の前にご飯とお味噌汁がある場合、どちらから手をつけるか?という場面。
「自分は先にご飯を食べてから、お味噌汁を飲みたい」と感じて、
先にお茶碗に手を出す訳です。
 
このように私達が選択する際の大原則は、
「どうしたいか?」であり「どう生きたいか?」であります。
 
しかしこの大原則が通用しない分岐点が、「人生」には多く存在するのです。
 
その「どう生きたいか?」が通用しない分岐点は全て、
他の人(や生命)によって、もたらされます。
つまり他の生命の「意識」が関与したときに、
「どう生きたいか?」という大原則だけでは解決できない選択肢が現れる訳です。
 
例えば、犬の散歩に行ったときに、犬が右の道に行こうと踏ん張ったとしましょう。
「今日は疲れているから、いつもの左の道を進んで帰りたい」と飼い主が思っていても、
結果的に飼い主が折れて、右の道に行くことは十分にあり得る訳です。
 
人同士の場合、なおさら自分の「どうしたいか?」が通用しなくなります。
逆にこの社会で共同生活を営む場面においては、
自分の「どうしたいか?」を封殺する必要すらある訳です。
 
例えば職場においては、
「自分がどうしたいか?」は置いておいて、組織のために人は動きます。
 
様々な人や生命と助け合いながら生きていくこの世界では、
「自分以外の存在のために生きる」という感覚を身につける必要があるようです。
 
しかしそれは、「自分がどう生きたいか?」を消し去れというものではありません。
 
「自分がどう生きたいか?」という大原則を無視して、
「人生」の選択をし続けてしまった場合、
はたして、それは本当に生きていると言えるのか?
 
他者を尊重しすぎて他人の「人生」を歩んでいては、
自分が死ぬときに後悔しないでしょうか?
 
人間という生き物の難しいところは、ここだと思います。
 
他者や公のために生きる必要がある反面、
「自分がどう生きたいか?」が薄らいでしまう人間達。
 
こういったジレンマの中で、私が考える解決策は、
「自分がどう生きたいか?」というベースの上に、
「他者や公のために生きる」という価値観をなるべく乗せることだと思います。
 
ただしこれには、都度自問自答が必要です。
 
はたしてこの選択は、「自分がどう生きたいか?」というベースに乗っているのか?
 
うまく乗せられることなら、それはとてもよいことだと思います。
それは、自分も含めた複数の人の役に立つ選択肢ですから。
 
うまく乗らないとしたら、そのことを「心」に十分留意する必要があると考えます。
その選択肢は、少なくとも自分のためにはならない選択肢です。
そしてもしかしたら、それは他の誰かも傷つけてしまう選択肢かもしれません。
 
そうであっても、やらざるを得ない場合が多々あると思いますが、
その場合常にその道が「自分の生きたい道」なのか自問自答し、
本来生きたい道に復帰する分岐点の標識を、
常に注視していく必要があると想うのです。
 
なぜなら、その道を「カーナビ」の言うまま闇雲に進んだって、
自分の生きたい目的地には着きませんから。