自分の「世界」に「責任」を持つ

私は、多少なりとも数奇な「人生」を歩んでいます。
 
私は今、42歳です。
しかし、結婚はしていません。
 
世間の人から見たら、
私が「人生」の中で果たすべき義務を全うしていないと考える人もいるでしょう。
一方で、普通の人が享受している「幸せ」を味わえていないとも言えます。
 
こんな「人生」、私はイヤです。
・・・とは、言えません。
 
私は、私の「選択」で、今の自分の「世界」を生きているのですから。
 
自分には自分のこだわりがあり、それを押し通した「責任」が自分にはあります。
 
私の価値観はとても変わっているので、
自分の「内面」を理解してくれる人でないと結婚したって
お互いに苦しいだけだなって想うのです。
もちろん、私自身に魅力がないっていうのもありますが(笑)
 
私は一見、人や環境に流されるようでいて、
「内面」の部分は、誰よりも頑固です。
 
間違っていると思っていることには、「心」から迎合することはありません。
正しいと感じることは、どんなに軽視されようとどんなに不利益を被ろうと、
それを実行するのです。
 
私の中の、間違っている間違っていないの価値観は、それが「優しい」かそうでないか。
 
例え「優しい」選択肢でも、度を超えれば奇異の目で見られます。
この「世界」では、
血縁以外の苦しんでいる人を金銭的に支援することはあり得ない話のようです。
 
砂漠に住んでいると想像してみて下さい。
自分が消費する以上の「水」を持っていたとして、
そこに命に関わるほどの脱水症状の旅人が現れたときに、
多くの人は自分の「水」を分け与えると思います。
 
しかし同じ「資産」でも、「お金」でそれをやると奇異の目で見られるのです。
 
「人」の「心」まで買えるという「お金」という「資産」。
私は、「お金」という概念に疑問を持っています。
明らかに今の社会では、「お金」は「優しさ」よりも上位概念です。
 
まあ、こんなことを言っていると、
「わぁ、こんなヤツ付き合いにくいなぁ」と感じる人が結構いると思います。
 
それは、仕方のないことです。
そういう周囲の反応が今まで不満であったこともありますが、
今はそういう反応は普通だと思いますし、
いろいろあってのその人の価値観ですから、それはそれで真っ当な意見だと感じます。
 
ただ問題は、私自身の「心」が周りと違うことに不安を覚えてしまうということ。
 
しかし私には、わかっています。
その「信念」を放棄して生きたら、
それは自分にとって「幸せ」な「人生」ではないということ。
それは、偽物の空疎な「人生」です。
 
どんなに冷たい視線にさらされようと、不利益があろうとも、
私の「優しさ」という「価値観」から外れることには、私は迎合したくありません。
私が「変わる」としたら、それはもっと「優しい」方向にのみです。
私は「優しい」方向にのみ、成長します。
おそらく「優しさ」こそが、この「人生」というゲームの最重要アイテムです。
 
その代わり、
そういった頑固な選択の結果として引き受ける自分の「世界」に、私は「責任」を持ちます。
一生家族を持たなくたって、一生貧乏なままであったって、一生苦しくったって、
私は誰よりも「優しい」人間であり、「優しい」行動を実践する人間でありたい。
 
「自由」は「責任」とセットだと、よく言われます。
私は「社会」の大きな流れに飲まれることなく、
自分の「人生」を「自由」に生きるつもりです。
全ての結果を引き受ける「覚悟」と共に。
 
どんなに「お金」があったって、どんなに「人とのつながり」があったって、
この「生きる自由」だけは手に入りません。
 
私は、私の「人生」というチップを、
この「生きる自由」と「優しさ」に賭けてみるつもりです。
 
私の見立てでは、結構レアなリターンを得られると予想しています。