「不幸」の反対は、本当に「幸せ」なのか?

「不快」から遠ざかっても、不思議なことに「快」にはなりません。
「苦しい」ことから遠ざかっても、
「楽」にはなりますが、「楽しく」はない訳です。
 
思うに、「不幸」と「幸せ」は同じ軸線の上にないように感じます。
「不幸」が全くない生活をしていても、
その状態イコール「幸せ」にはならないと思うのです。
 
例えば、紛争のある国を引き合いに出して、
日本のように平和な国に生まれたのだからそれだけで「幸せ」だろうという論調がありますが、
これは「不幸」から遠ざかっているから「幸せ」だという理屈だと思います。
 
しかし、本当にそうなのか?
確かに平和な国に生まれたことは有り難いことですし、
「幸せ」だと感じるべきとは思います。
 
しかしそう言われて、だから「幸せ」だと感じることが本当にできるのでしょうか。
そんな簡単に「幸せ」になれたら、初めから誰も悩んでいないと思います。
 
やはり「不幸」から遠ざかるだけでは、「幸せ」になれないのです。
 
「不幸」と「幸せ」が同じ軸線上にないと言うのなら、
「不幸」の対局は「幸せ」ではなく、他の概念になると考えます。
同様に、「幸せ」の対局の概念も別にあるはずです。
 
「不幸」の対局は、「平和」とか「楽」とか「安穏」とか、
波風が立っていない状態を想定できると思います。
一方で、「幸せ」の対局は何でしょうか?
 
私は「幸せ」には、「動き」が付きものだと考えます。
「静」よりも「動」の中に「幸せ」があると感じるのです。
 
例えば胸躍る体験をしている時、
例えば自己実現した時、
例えば誰かを笑顔にした時。
 
逆に、天から降ってきた幸運で「幸せ」を感じることはできないように感じます。
自らが動く中に、「幸せ」は存在するのだと考える次第です。
 
大きな口を開けて親にエサをねだるヒナ鳥。
しかし、ヒナ鳥に「幸せ」はないと考えます。
「幸せ」があるのは、可愛い子ども達に餌を与えることができている親鳥の方です。
 
同様に、嫌々仕事をして高給を得ている大企業の社員より、
自身の能力が活かされる仕事で給料を稼ぐ中小企業の社員の方に
「幸せ」があると感じます。
 
今まで描いてきたことを図にまとめると、こんな感じです。

 
この図示で、大切なことがわかります。
それは、「不幸」であっても「幸せ」になることができるということです。
 
「幸せ」になるためには、「平穏」であろうが「不幸」であろうが関係がありません。
つまり現在の環境が悪いからと言って、
「幸せ」になることを諦める必要は全くないということなのです。
 
どんな環境下にあっても、「幸せ」になるためには自分からアクションを起こすだけでよい。
そう考えると、気が楽になりませんか?
 
そして、自分がアクションを起こさないことを不遇な環境のせいにしているのは
間違いであることにも気づくはずです。
 
私はこのブログでの気づきを活かして、
今日からアクションを起こそうと思います。
 
アクションを起こすのは面倒だし「楽」なことではないですが、
やっぱり「幸せ」になりたいですからね。