「人生」を「旅」と思えば「ハレ」やかだ

「人生」を「旅」と思えば、
いろんな「執着」を捨てられます。
「執着」から解放されるから、
「人生」を楽しめるし、
「人」にも優しくなれ訳です。
 
私は「ポケモンgo」をやっています。
バカにする人もいるかもしれないけど、
「人生」を「旅」と捉えるなら、
こんなエポックメイキングなゲームをやらない方がむしろどうかしています。
全世界が熱狂しているゲームです。
国境や世代や人種を越えて語りあえるゲームなんて、早々ありません。
 
せっかくこの面白い時代に生まれたのに、
ポケモンgo」を体験せずに「人生」を終えるのですか?
私は、この「世界」を満喫して「人生」を終えたいと思います。
雪祭りのシーズンに札幌を訪れたのなら、
絶対「雪祭り」は見に行きたいと思うのと一緒です。
 
ところで、「ハレ」と「ケ」という日本人の伝統的な世界観を知っていますか?
ウィキペディアは、こちら
 
民俗学文化人類学において「ハレとケ」という場合、
「ハレ」は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、
「ケ」は普段の生活である「日常」を表します。
 
「ケ」という表現はあまり使われなくなりましたが、
「ハレ」は、「晴れの舞台」とか「晴れ着」とか、
まだまだ日本人の精神性に根付いて使われているようです。
 
日本人は「ハレ」の日を楽しみにして、「ケ」の日常を生きてきました。
 
しかし現代日本人は、生活に「ハレ」と「ケ」の区分を失いつつあるようです。
例えば、伝統的な地域コミュニティの影響力がなくなり、
地域の祭りを「ハレ」として熱烈に楽しむという風でもなくなってきました。
 
日本人の生活から「晴れの舞台」がなくなってきているのです。
 
「ハレ」という概念がなくなってくると、
今もこれからも、毎日同じ日常が続くような錯覚に囚われてしまいます。
これが、現在うつが増えている一つの要因ではないでしょうか。
 
ですので、「人生」を「幸せ」に生きるためには、
まず自分なりの「ハレ」を構築する必要があると、私は考えます。
もう、地域の祭りは「ハレ」として機能しなくなったのです。
 
では自分なりの「ハレ」とは何か?
それは、例えば「旅」なんだろうなと思います。
私も先日、関ヶ原を「旅」して来ましたが、
やっぱり行ってよかったなと思います。
その体験は私にとって「ハレ」の記憶となり、
「ケ」の日常を生きる支えになっているのです。
そして「次はどこに行こうかな」と、
将来の「ハレ」を夢想できるようになりました。
 
JTBの入社試験で、
「旅とは何ですか?」という問いがあったそうです。
「深い質問だな・・」とずっと考えていたのですが、
今なら答えられます。
 
「旅」とは、「ハレ」です。
「旅」は、「ケ」の日常を生きるエネルギーを与えてくれます。
「旅」は、私達生活者が求める「非日常」なのです。
 
さて冒頭で、私は「人生」を「旅」と捉えていると申しました。
つまり、この「人生」全体を「晴れの舞台」と捉えているのです。
 
もちろんず〜っと「旅」気分でいる訳にもいきませんが、
この「人生」は「旅」であると認識することで、
私の「人生」で起きるいろんなことが、楽しくそして愛おしくなります。
そして「次はあっちを見学したい!」と、
前向きに行動的になることもできるのです。
 
憎しみやコンプレックスやお金や世間体や老後や、
様々なものに囚われている人を見ると、
「せっかくの旅行なんだから、もっと楽しめばいいのに・・・」と率直に感じます。
 
本当にこの「世界」は、観光名所だらけです。
旅行先で友達同士ケンカするのもよい思い出にはなるけど、
こんなに、見たり体験するものが一杯あるんですから、
訪れたこの「世界」を存分に楽しみたいなぁと、私は思います。
 
「旅」には、「上手・下手」が明確に存在するようです。
一人旅を楽しめる人は、「旅」が上手だと言えます。
必要なものは、「好奇心」「世界を愛おしく感じること」くらいかな。