「メジロ」推し

私は昔から、野生の生き物が好きでした。
彼らの生き様から学ぶことはたくさんあります。
そして感動したり感嘆したり、心を動かされるのです。
  
野生の生き物と言っても、ライオンやゾウにはあまり興味がありません。
私の隣人ではないからです。
 
私は、身近にいる雑草や鳥たちを好みます。
 
花鳥風月。
雑草は綺麗な花を咲かせ、鳥は愛らしい唄を歌います。
 
今回私が紹介したいのは、メジロです。
私が愛する鳥たちの中でも、最も愛くるしいと感じています。

 
今回参考にさせて頂いている情報元は、ご覧の通りです。
ウィキペディア
・書籍「鳥ってすごい!」(樋口広芳著、ヤマケイ新書)
 
メジロは、昔から春を告げる鳥として親しまれてきました。
花の蜜を大変好むため花期に合わせて行動し、
春には好物の花の蜜を求めて南から北へと移動することもあるようです。
花の蜜を好むことから、
地方によっては「はなすい」「はなつゆ」とも呼ばれています。
ソメイヨシノが開花すると、
ヒヨドリやスズメと共に花に群がっている姿を観察できます。
日本人の桜好きは、彼ら野鳥にとっては恵となってるようですね。
 
花が咲き始めるこの時期、私の住んでいる鎌倉市にもメジロ達がやって来ています。 
スズメよりも一回り小さい彼らですが、スズメに比べて比較的警戒心が緩いです。
ですので、その緑色の可愛い姿を近づいて観察することができます。
彼らは細く尖ったクチバシを花に差し入れ、
ブラシ状の舌で花の蜜を舐めとるのだそうです。
 
さてここからが、今回のブログの本番となります。
今回紹介するメジロの仲むつまじい夫婦の愛情を知れば、
きっとあなたも今日から「メジロ」推しになるはずです。
 
まず予備知識として、「つがい」について説明します。
「つがい」とは、動物のメスとオスのペアのことです。
ほとんどの鳥は、産卵してヒナを育てるまで「つがい」で協力します。
なぜなら、鳥は卵を温める必要があるからです。
虫や魚の卵と違い、鳥の卵は一時も休まず温め続けなければなりません。
 
そうすると、メスだけでは卵を孵化させることができないのです。
メスだけでずっと温めていたら、メスはエサを食べられず餓死してしまいます。
ですから、メスとオス交代で卵を温めて、
一方がエサを摂りにいくというスタイルが必要になる訳です。
 
また生まれたばかりのヒナには羽毛もなく、全くの非力です。
ヒナを置いてエサを探しに行くことができないため、
卵が孵化した後も、一方がヒナを護り、一方がエサを探しに行くという、
「つがい」の協力プレーが必要となります。
 
哺乳類では、母親のお腹で、ある程度の期間子どもを育てるため、
そこまでメスとオスが共同で育児をしなくてもよいのです。
哺乳類の子どもは、生まれた瞬間自分の脚で立ち上がります。
 
しかし人間の赤ちゃんは、野生の哺乳類と違って一人では何もできません。
ですから、鳥の「つがい」のようにお母さんとお父さんで面倒を見る必要がある訳です。
 
このように鳥類は、人間の夫婦のようにメスとオスでカップルをつくるのですが、
多くの鳥では「つがい」は1年限りの契約となります。
翌年の繁殖期には、別の相手を見つけるのです。
夫婦仲の代名詞となっているオシドリも、1年ごとにパートナーを変えます。
 
しかし寿命の長い鳥(ツル、ガン、ハクチョウ、タカ、アホウドリ)では、
一生同じ相手と「つがい」になり、繁殖期以外も行動を共にするそうです。
一方で寿命の短い小鳥では、一生涯のパートナーをほとんどつくりませんが、
メジロは一生同じ相手と添い遂げる数少ない例となっています。
 
メジロは、巣作り、抱卵、育雛、をいつも同じ相手と協力して行うのです。
また、夫婦同士で相互に羽繕いをしてあげたりします。
そして極めつけは、接触就眠という習性です。
 
メジロは、夜になるとつがいの二羽が枝上で並んでとまり、
完全にくっついて休みます。
寝ている木の下で手を叩いたりして驚かすと、
一瞬枝の上で少し離れますが、すぐまたくっついてしまうのだそうです。
スズメやムクドリ等、他の一般的な鳥たちの場合は、
就寝時、個体と個体の間には一定の距離が保たれます。
 
メジロ接触就眠。
なんて、愛くるしい習性なんでしょうね!
 
もちろん性格の不一致(?)で、メジロも離婚することがあります。
メジロの離婚率は5.7%と、一般の鳥に比べて低いです。
日本人の離婚率は20%弱といったところなので、
日本人の夫婦よりも、メジロの夫婦は仲がよいと言えるかもしれません。
 
また「つがい」をつくる鳥類も、浮気をするようです。
鳥の場合は、
メスが自分のパートナーよりもかっこいいオスを選んで交尾をすることがあります。
この「つがい外交尾」は、メスとオスの外見が異なるほど高い確率になるそうです。
オシドリなんかは、オスの外見がメスと全く異なります。
オスの外見が異なるということは、
オスの外見がメスに対するセックスアピールになっているということです。
ですからオシドリのメスは、
ふらふらとかっこいいオスと浮気をしてしまう傾向があります。

 
これに対して、メジロは雌雄同色。
おそらく浮気の確率も低いのではないかと予想されます。
 
はい。
ここまで、長々とメジロの「つがい」の仲むつましい愛くるしさを説明してきました。
そして最後に、とどめの写真を載せます。
この写真を見たら最後、
今日から絶対あなたは「メジロ」推しになるはずです。
 

「命」とは何か?(その2)

「命」とは何か?
 
前回記事から、そんなことを考えています。
前回では、自分の仮説を構築できませんでした。
 
ゴキブリホイホイにかかったゴキブリが餓死した瞬間、
彼の「命」が失われます。
 
餓死する1秒前と、餓死した1秒後では、何が違うのか?
 
彼を構成する物質的な部品は、一緒です。
ただ、これらの物質的部品を動かす機能が失われました。
彼は、「生きる」機能を喪失したのです。
 
前回、自律思考型のロボットのことを考えました。
自律思考型ロボットにとって、充電切れという現象が「死」ではないかと考えたのです。
 
ゴキブリが餓死するのと、自律思考型ロボットの充電切れは、
一緒ではないかと考えました。
 
しかし、大きな違いがそこにはあるのです。
ゴキブリが餓死したら、もう生き返ることはありません。
ですが、自律思考型ロボットは再充電すれば再び動き出す訳です。
 
ゴキブリの部品は私達人間がつくり出す部品と違って、
精妙にデリケートにつくられています。
一度機能を停止したら、部品はその機能を維持できず崩壊を始めるのです。
各部品を機能させるための温度が失われ、細胞に酸素や栄養素の供給が止まります。
 
ですから、ゴキブリにとってのエネルギー切れは「死」です。
しかし、ロボットの部品はエネルギー切れ程度では崩壊しません。
ロボットの充電切れは、生物で言うところの冬眠に近いでしょう。
 
じゃあ、ロボットにとっての「死」とは何であるか?
修復不可能なまでに破壊されたら、それは「死」でしょう。
ゴキブリだって、新聞紙などで体をつぶされたら「死」にます。
 
しかし、体を破壊されて体を動かせなくなっても、
ゴキブリにまだ「意識」があったらどうでしょう?
「意識」があれば、まだ「死」んでいないと言えます。
 
そう考えると、「命」は「体」に宿るのでなく、
「意識」または「精神」に宿るものだと言えるはずです。
 
じゃあロボットの体を破壊せずに、ロボットを殺す方法はあるでしょうか?
それは、ロボットを動かすプログラムを破壊することではないかと考えます。
ロボットの体を動かすプログラムに深刻な不可逆的なエラーが出て、
ロボットが活動を停止したら、
それはロボットにとっての「死」を表すのではないかと考える次第です。
 
もちろんプログラムのエラーを修復すれば、ロボットは再び動き出しますが、
そこにはプログラムを書き直すという事象が発生します。
 
プログラムが書き直されたロボットは、はたして以前の彼のままなのでしょうか?
 
自律思考型ロボットの彼は、
彼も自分自身で学習して自分自身のプログラムを変革してきました。
自分で自分を変革してきた彼は、中身は変われどずっと彼自身なのだと思うのです。
しかし、そのプログラムに他人の手が入った時点で、
彼は別の彼になったと、私は考えます。
  
彼の精神の「生」が、彼自身だけの力では続行不能になったとき、
そこに彼の「死」が訪れる訳です。
 
まあちょっと強引な論の展開ですが・・・
上記のように考えていくと、
「命」とは、「物質」あるいは「ハード」の中に宿るものではなく、
「精神」あるいは「ソフト」の中に宿るもののように思えます。
 
「命」とは「体」を動かす「プログラム情報」に宿るという考え方です。 
その「プログラム情報」の「意味」が失われたときに、「命」は失われます。
 
例えるなら、「やま」という情報には「意味」があるのに対して、
ここにノイズとして「か」が入ってしまい、
「やかま」という情報に変化してしまった途端「意味」は喪失する訳です。
 
物質は「数字」や「数式」に還元されるため、物質の根幹は「数字」となります。
一方で情報は「意味」に還元されるため、情報の重要な根幹は「意味」となるのです。
 
「命」とは、「生命」の(プログラムの)「意味」である。
 
私が生きている「意味」。
あなたが生きている「意味」。
 
「命」ある限り、その「意味」は紡がれていきます。

「命」とは何か?(その1)

「命」って何ですか?
 
この問いに対して、
しっかり自分の見解を答えられる方は、
大したものです。
 
私は、返答につまります。
科学では答えが出されていない難問です。
 
試しに、ウィキペディアを調べてみました。
わずか7行の説明。
冒頭には、こんな解説がされています。

命(いのち)とは、多様で奥深い意味を持つ概念であり、
生物の生きる力や期間、生きていく大もとの外に現れる働きのもと。

まあ簡単に言えばそうなんですけど、
私たちが「命」を語る場合、
もっと奥深いところを語りたいですよね?
 
つまるところ、「命」って何なの?
 
私たちがもっとも大切にしているものなのに、
私たちはそれがなんだかよくわからないのです。
 
ゴキブリホイホイにかかったゴキブリがいるとします。
そして彼は、今この瞬間、餓死しました。
 
餓死する1秒前と、餓死した1秒後では、何が違うのでしょう?
餓死する前には「命」があり、餓死した後には「命」がなくなりました。
 
物質的な構成は、ほぼ同じはずです。
しかし、「生きる」機能が失われました。
 
この文脈で考えると、
自律思考型のロボットがいた場合、
このロボットには「命」があると言えそうです。
 
例えば、ロボットの充電が切れてしまいました。
充電が切れる前にはロボットとして活動する機能があり、
充電が切れた後にはロボットとして活動する機能を喪失してしまった訳です。
 
ならば、充電が切れていないロボットには「命」があると言えませんかね?
充電が切れた時、そのロボットには「死」が訪れる。
 
ん?ちょっと待てよ。
「死」って言うのは、おかしいですね。
なぜなら再充電すれば、ロボットは再び動き出します。
 
私たち生命にとって、「死」とは永遠のもの。
「生」→「死」になることはあっても、
「死」→「生」になることはありません。
 
しかしこれは、私たち生命の体が有機物でできているからです。
有機物の体はとても精妙につくられていますが、
一度その活動のシステムが止まってしまうと、
デリケートな素材である有機物は不可逆的に崩壊してしまいます。
 
もし私たちが機械の体を持つようになれば、
きっと「死」→「生」が可能になるでしょう。
 
このように考えていくと、
「命」を考察する際に、「死」から辿ろうとしてもあまり意味がないように感じます。
 
「命」は、「死」の中になく、「生」の中にあることは確かです。
また、「死」の反対は「命」ではありません。
ですから「死」をどんなに考慮しても、「命」の正体には辿りつけないと感じるのです。
 
「死」ではなく、「生」の中に「命」があります。
 
なので「生」を考察すれば、「命」の「意味」に辿りつけそうです。
  
「生きる」をウィキペディアで調べてみました。
 
解説は、
「生きる(いきる)は、人や動物が、生命を保ち活動できる状態にあること。」
という一文だけでした。
 
この解説では、「命」の意味が分からないと「生きる」ことを説明できません。
ああ・・・堂々巡りです。
 
ふぅ。
・・・今回は、私の負けです。
一つのブログ記事の中で、自分なりの結論を導くことができませんでした。
 
しかし次回の記事で、更に考察を進めたいと思います。
次回「命とは何か?(その2)」で、自分なりの仮説を構築するつもりです。

「魂」とは何か?

私は、「脳」科学の本を好んで読みます。
そこに、「私とは何か?」という問いへのアプローチがあるからです。
 
私は、こう考えています。
「私」−「脳」の機能=「魂」
 
「脳」科学の本を読んでいると、
様々なことを「脳」が行っていることがわかります。
 
例えば、記憶は「脳」科学で最も進んでいる分野です。
認知症の症例を見てもわかるように、
記憶に関する一連の機能は、
「脳」という物理的器官が、重要な役割担っています。
 
ならば、「魂」側は記憶を保持できないのではないかと考える訳です。
「脳」というハードディスクがクラッシュしたら、
今まで生きてきた記憶は全てこの世界から消えてしまいます。
これは、相当な時間をかけてつくったエクセルの表が壊れるよりも、
何万倍もショックなことです。
私達が一期一会でつくりだした記憶は、
宇宙に一つしかない宝石のような希少性を有すると私は考えます。
 
自由意思についても、
どうやら「脳」が生み出しているようです。
「受動意識仮説」と呼ばれる学説があります。

簡単に言うと、
私の体を動かすという指示は、
私という意識がやっているのではなく、
脳(や体)という物理的器官の総体からやってきているという考え方です。
例えば、私が手を動かそうと決定しているのは、実は私ではありません。
私が手を動かそうと考えるよりも0.35秒早く、
脳は手に筋肉を動かせと指示を出しているのです。
(詳しくは、過去ブログ「【受動意識仮説】私は、私を動かしているの?」をどうぞ)
 
私達は、思うまま自由にこの「世界」を生きているのでなく、
実は映画館で「The人生」という映画を鑑賞しているだけかもしれないのです。
まあ、めちゃくちゃリアルな映画ですけどね・・・
 
では、感情はどうでしょう?
「好き嫌い」などの情動を司っているのが、扁桃体という脳の器官です。
例えば、扁桃体が機能しないマウスは恐怖を感じなくなります。
 
「好き嫌い」やおそらく「喜怒哀楽」という感覚も、
脳という物理器官がつくりあげた幻に過ぎないと考える次第です。

最後に、「愛」についても確認してみましょう。
私は最近、「つながる脳科学」という書籍を読みました。(講談社ブルーバックス
日本の脳研究の総本山「理化学研究所脳科学総合研究センター」の学者さん達によって
最新の研究結果が書かれた書籍です。
 
その中で、黒田公美さんという研究者が愛情に関する脳科学の研究結果を執筆しています。
研究対象は、マウスの親が子に対して持つ愛情でした。
詳しい話は、是非書籍を読んで欲しいのですが、
脳の内側視索前野中央部(cMPCA)という部分の機能が低下したマウスでは、
母親が自分の子どもの面倒を見ずに殺してしまうという現象が起こります。
逆に言えば、子どもに上手く愛情を示せないマウスに対して、
この内側視索前野中央部(cMPCA)という脳部分の機能を回復させてあげれば、
親は子をちゃんと愛することができるようになる訳です。
 
もしかしたら、「愛」も脳の物理的機能から生まれているんじゃ・・・
 
今までの一連の私の文章で、「私」って何なの?と、
モヤモヤしたものを感じた人は、
是非ブルーバックス「つながる脳科学」を読んでみて下さい。
全体的に内容に難しい部分もありますが、最後の黒田公美さんの章だけでも必見です。
他の章も、非常にエキサイティングだと思いますけど。
 
・・という訳で、こんなにいろんなことを「脳」がやっているなら、
「魂」なんて存在しないんじゃないの?という結論になってしまいそうですね。
しかし私は、そういう結論を用意しておりません。
 
じゃあ、この「私」を体験している「私」は何なの?って話です。
夕日を見たときに「赤い!」と感じる私。
はたしてロボットが自分のカメラ・アイで夕日を見て「赤い!」と感じるでしょうか?
 
それに、「私は確かに今ここにいますよ!」という実在の感覚。
うまく説明できないですけど、「魂」のある人にはわかりますよね?
「私!」というこの感覚です。
 
その感覚も「幻」に過ぎないんだよって説明をする人もいます。
ならば聴きたいのは、その「幻」を見ているのは一体誰なんですか?という話です。
 
タマネギの皮をむいていって最後に残る何か。
絶対に除去できない何か。
 
私は、今後も脳科学の書籍を読み続けて、
「私」とは何か?を探っていきたいと想います。
 

自分の自分による自分のための活動

最近、ブログを更新できていませんでした。
主な理由は、仕事が忙しかったからです。
 
しかし仕事ばかりだと、何かが不足してきました。
 
仕事は、社会との重要なつながりです。
社会に貢献しているという自覚は、
自分自身が社会の一員として社会に参加できているという安心感を与えてくれます。
加えて、社会の一員として成長する機会を与えてくれる訳です。
 
しかし、社会人としての人間活動だけでよいのか?
自分が立派な社会人になれば、それだけで本当にOKのか?
 
私は、「違う」と考えます。
 
例えば、立派な家族をつくるということも大切でしょう。
立派な友人関係や恋愛関係をつくることも重要な成長だと考えます。
 
しかしもっと根本的に重要なことは、
半端な自分から立派な自分になることです。
 
「自分は、もう既に自分だろう?」と思う人がいるかもしれません。
 
でも本当に自分は、十分に自分なのでしょうか。
 
冒頭の社会人の例に、当てはめてみましょう。
 
(1)社会人は、社会に貢献する存在です。
    ↓
   はたして、自分は本当に自分に貢献できているでしょうか?
 
(2)社会人は、社会とつながることで、社会人として成長します。
    ↓
   はたして、自分は本当に自分とつながっているのでしょうか?
 
人は、様々な顔を持つ宿命にあります。
「社会人としての自分」「家族としての自分」「友人としての自分」「恋人としての自分」。
それぞれの自分が成長することは、とても好ましいことだと思います。
 
しかしこれらが成長したとしても、
その結果「自分としての自分」がどこか隅に追いやられてしまうとしたら、
それはとてもアンバランスなことです。
 
例えば、父親として十分に家族とつながり成長した人がいたとします。
そういう人は、本当に立派な人です。
世間的には、「それで十分だ」と考える人もたくさんいると思います。
 
しかし私はここで、あえて「異」を唱えたい。
 
自分を蔑(ないがし)ろにしていないか?
父親という役割あるいは仮面がはりつきすぎて、本当の素の自分を喪失していないか?
 
私は、自分が自分でなくなることを恐れます。
この「世界」とつながっている最も大事な拠り所。
それは、社会でもなく家族でもありません。
それは、この世に生を受けた「自分自身」です。
 
だから私は、
「自分自身」にちゃんとつながり、「自分自身」にちゃんと貢献したいと考えます。
そして、立派な「自分」に成長したいです。
 
もちろんこれは、
立派な社会人になることや立派な家族になることを否定するものではありません。
 
「自分自身」という土台の上に、
「社会人としての自分」「家族としての自分」等が花開く訳です。
上部だけがどんどん成長して重くなっては、
いつか上部に栄養が回らなくなって成長が止まるだろうと言いたいのです。
そして、土台の「自分自身」がひ弱すぎる場合、
「過労死」や「うつ病」というリスクが出てきます。
 
「幸せ」になるためには、
「自分としての自分」を成長させる必要があると、私は考えるのです。
 
では、「自分としての自分」を成長させるにはどうしたらよいか?
まず、自分とつながることです。
そうして、自分自身に貢献する人間活動を積むことだと考えます。
 
私にとって、自分とつながり自分に貢献する活動は、
このブログを描くことです。
 
人は「自分とは何か?」ということを、ほとんど理解できていません。
ですから私は、もっともっとブログを通じて自分と対話を進め、
自分自身を知っていこうと考える次第です。
そして、自分が必要とする文章を描いていくことで、自分に貢献していきます。
 
社会人や家族人として成長することはとても重要なことですが、
最後に死ぬときそこにいるのは自分だけです。
 
死ぬ間際に「ああ、ここに自分がいたのか・・・」と気づくようでは、遅すぎます。
この世に「自分」として生を受けたのですから、
立派な「自分」に成長して、
死ぬ際には立派な「自分」を世界に返したい(還したい)と考える次第です。

コロッケにまつわるエトセトラ

今日は、朝食でコロッケを食べました。
久しぶりのコロッケは、
なんだか安心する味でした。
 
という訳で、
ついでにコロッケにまつわる知識も一緒に頂いちゃいましょう。
はたしてコロッケは、どのように日本に定着していったのでしょうか?
 
いつものごとく、ウィキペディアを見に行きます。

コロッケ(Korokke、英: Potato croquettes)は、
西洋料理のクロケット(仏: croquette、蘭: kroket)を模倣した、日本の洋食の一つ。
日本国外に逆輸出された日本式コロッケは日本語そのままに'Korokke'と呼ばれている。
1895年(明治28年)の女性誌『女鑑』には、
このクロケット(「仏蘭西コロツケ」と表現)をジャガイモを使ったコロッケと対比して、
それぞれはもはや「別の料理」と書かれている。

なるほど・・
コロッケも、ラーメンやカレーのように日本で魔改造された外国の料理だったのですね。
出身は外国でも、もはや日本の料理であると。
 

正確な記録や定説は存在しないが、
明治時代の文明開化の中でフランス料理やイギリス料理の一つとして
日本にもたらされたものと考えられる。
1917年(大正6年)当時、洋食の豚カツは13銭、ビーフステーキは15銭だったのに比べ、
コロッケは25銭と高価な料理であった。

 
意外や意外、その昔コロッケは高級食材でした。
しかし、お肉屋さんでコロッケが定番になったとき、
コロッケは一気に日本の大衆食として普及しました。

安価な惣菜としてのコロッケは1917年(大正6年)の東京「長楽軒」のメニューに端を発し、
ここのコック阿部清六が
関東大震災後の1927年(昭和2年)に立ち上げた精肉店「チョウシ屋」での商品化により、
肉屋の惣菜としてのコロッケの地位は揺るぎないものとなった。
肉屋において多量に生じる、
保存し過ぎて色の悪くなった肉や細切れ肉、揚げ油に使えるラードなどの利用が、
より安価なコロッケを提供できるようになった理由としてあげられる。

 
私は思うんですよ。
物づくり日本として工業製品ばかりが注目されますが、
こうした日本のコックさん達の活躍も華々しいものがあると。
 
ラーメン、カレーのような外国から入ってきた料理の魔改造
寿司、天ぷらのような日本古来から料理。
いずれも今や、海外でも人気のある日本料理となっています。
 
そうやって魔改造されたコロッケは、
日本人の身近な料理として愛され、生活や文化にも溶け込んでいったのです。
 
大正6年には、
「ワイフ貰って嬉しかったが、いつも出てくるおかずはコロッケ♪」という歌詞の
「コロッケの唄」がヒットしました。

1 ワイフもらってうれしかったが いつも出てくるおかずがコロッケ
  きょうもコロッケ 明日もコロッケ
  これじゃ年がら年じゅう(ウィー)コロッケ

2 亭主もらってうれしかったが いつもちょいと出りゃ めったにゃ帰らない
  きょうも帰らない 明日も帰らない 
  これじゃ年がら年じゅう(エーッくやしい)留守居

3 さいふ拾ってうれしかったが 開けてみたらば金貨がザクザク
  株を買おうか 土地を買おうか
  思案最中に(ハッハッハッハクション)目がさめた

その昔「大須浅草三文オペラ」でトリに歌われた、
面白おかしいコミックソングなのだそうです。
 
コロッケは今のネット社会でも、
「台風コロッケ」というネタとして使われています。
ウィキペディアは、こちら

2001年8月21日に2ちゃんねるのニュース速報板の
「【台風11号パブーク】上陸秒読み実況スレッド 14号」スレッドに
111番目に書き込まれた
『念のため、コロッケを16個買ってきました。もう3個食べてしまいました』
という書き込みをきっかけに、
台風が接近するとコロッケを買う、
食べるというネタが生まれた。
2012年にねとらぼが300人にアンケートを取ったところ、
「台風コロッケ」を知っている割合は7割に上ったと発表した。

 
コロッケという料理が、今なお日本で愛され続けている証ですよね。
昭和の始まりと共に大衆に普及していったコロッケ。
日本人とは、100年弱の付き合いとなります。
コロッケを売る場所は、肉屋からコンビニに変わりつつありますが、
これからも家族や私のような独身者を笑顔にする食材であり続けることでしょう。
 

私達は、「モノ」か「情報」か?

このブログで「考察」を深めていく中で、
この「世界」は、
「モノ」と「情報」の2つで構成されているという見解を持つに至りました。
 
現代の科学が行っていることは、主に「モノ」の本質に迫る解明です。
「モノ」は、「数字」によって紐解かれます。
 
一方で、現代の科学であまり探求が進んでいないのが「情報」です。
「情報」の科学としては、「心理学」や「文化人類学」や「哲学」があります。
「情報」探求のゴールは、「数字」ではなく「意味」です。
「その有り様は、どういう意味に還元されるのか?」
 
対して「モノ」探求のゴールは、「数字」となります。
「その有り様は、どういう数式に還元されるのか?」
 
「モノ」は、全ての星に存在します。
月にも火星にも太陽にも、もちろん地球にも。
 
一方で「情報」が存在するのは、
現在確認されている中では、地球上のみです。
 
後は、NASAが打ち上げた宇宙探査機に、
「情報」が搭載されています。

ウィキペディアパイオニア探査機の金属板
 
さて、地球上には2種類の「情報」が存在します。
まず最初に生まれたのが、「遺伝子情報」です。
DNAもしくはRNAが「情報」を保持するようになり、
そこに「生命」が生まれました。
 
(蛇足ですが・・)ウィルスは「生命」か「モノ」か、という議論がありますが、
私は上記の観点から、ウィルスは「生命」であるという立場を採る次第です。
 
「情報」には、「モノ」にはない大きな特徴があります。
それは、「情報」が「進化」するということです。
「情報」は、自らの内容を複雑化し高度化することができます。
 
「生命」が「進化」するのは、「情報」のお陰です。
「情報」が存在しない「モノ」だけの惑星では、
「モノ」は永遠にそのままであり、
高度化するというようなことはあり得ません。
 
さて「遺伝子情報」のお陰で「進化」してきた「生命」は、
より優秀な「情報」を得るに至りました。
それが「脳内情報」である「言葉」です。
 
「脳」という器官で「言葉」という「情報」を扱うことができるようになった時、
「生命」は更なる爆発的な「進化」を目の当たりにすることになります。
そう、それが「現代文明」です。
 
「言葉」は「遺伝情報」とは異なり、様々な媒体で保存することができます。
また近年のインターネットの発達で、
ものすごいスピードで他の「情報」と交わることができるのです。
 
さて、ここで一つ考えたいことがあります。
私達は「モノ」でしょうか?
それとも「情報」でしょうか?
 
明確に「情報」ですね。
「モノ」としての体は、3ヶ月以内には全て入れ替わります。
一方で、「私」という「意識」は、生まれてから死ぬまでずっと保持される訳です。
 
「モノ」が移り変わっても保持されるものって何だと思いますか?
そう、それこそが「情報」であるということです。