カ〜ラ〜ス〜、なぜ鳴くの?

古い話で恐縮ですが、
昔「カ〜ラ〜ス〜、なぜ鳴くの?カラスの勝手でしょ〜♪」という、
志村けんさんのギャグがありました。
 

 
ユーチューブを観て頂くとわかりますが、
当時の子ども達から絶賛のギャグでした。
私も当時テレビの前で一緒に唄っていたのを思い出しました。
 
しかしこの唄は、「クレヨンしんちゃん」と一緒で、
当時の親達には歓迎されなかったのです。
 
「ちゃんとした歌詞を歌いなさい」と注意されます。
それでも当時の子供たちは、ふざけてこの唄を歌ったものです。
正しい歌詞の方を歌おうなんて、これっぽっちも思いません。
一体子どもたちは、何を面白がっていたのでしょうか?
 
おそらく「なぜ鳴くの?」という問いに対して、
カラスの勝手でしょ!」という返答が、
ナンセンスあるいは自由奔放すぎるからなのだと、私は考えます。
 
そもそも本当の歌詞の方は、こんな感じです。

からす なぜなくの からすはやまに かわいいななつの こがあるからよ
かわいい かわいいと からすはなくの かわいい かわいいと なくんだよ
やまのふるすへ いってみてごらん まるいめをした いいこだよ

野口雨情さんが作詞されていますので立派な歌詞なのですが、
子ども達には、まだ親ガラス側の心情はわからないでしょうね。
だから、歌詞の内容の意味がわからなかったのだと思います。
 
大人になってようやく・・・
いや、あれ?
これを読んでいるあなたには、この歌詞の意味がわかりますか?
 
大人の私ですが、
ものすごくイメージをふくらませないと、理解することが難しいです。
 
あのカラスの「カーカー」という鳴き声を、
我が子が可愛いと鳴いているように感じますか?
 
まだ「縄張りを主張するために鳴いているんだよ」とか
「友達とおしゃべりをしているんだよ」とかの方が、
スムーズな文脈になるのではないでしょうか?
 
さて、この唄の名前は「七つの子」といいます。
ご存じでしたか?
ウィキペディアを読むと、こんなことが書いてありました。

『七つ』の謎
『七つ』という言葉が「7羽」を指すのか「7歳」を指すのかは明らかになっておらず、
度々論争の種となっている。
カラスは一度に7羽もの雛を育てることはなく、
7年も生きたカラスはもはや「子」とは呼べないためである。

この謎への一つの解釈として、

「7歳説」への有力な手がかりとして、
野口雨情記念館の館長である雨情の孫娘が主張する、
雨情の息子(つまり館長の父親)がこの歌のモデルであり、
その息子が7歳のころに作られた歌であるという事実がある。
これは身内による主張であるため、説得力があるとする見方が存在する。

という見解があります。
 
つまり、野口雨情さんのお子さんに対する愛着の想いを、
鳴いているカラスに投影している可能性がある訳です。
 
もしその解釈が正しいとしたら、
「皆が唄う公共の童謡に、なに勝手に自分の私事を入れてんねん?」と、
私なんかはチラッと思ってしまいます。
 
「裸の王様」という童話では、
裸でパレードをする王様に、大人達は「素敵なお召し物です!」と賞賛の声を上げました。
しかし小さな子どもの一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだのです。
 
「七つの子」についても、もしかしたら同じことが言えるかもしれません。
大人達は有名な童謡だから立派なちゃんとした唄だと、あまり考えずに評価した一方で、
子ども達はありのまま、意味の通らない歌詞に「この唄はつまらない」と感じ、
音楽の時間等でこの唄を歌わなければならない時には、
「押しつけられ感」を感じていたのではないでしょうか?
そして、「なぜ鳴くの?」という問いへの納得できる答えが出ていないことに、
違和感を持っていたのだと思います。
 
そこに、志村けんさんの「カラスの勝手でしょ!」という答えが提示され、
子ども達は「そうだよね!」と皆納得がいったのではないでしょうか?
 
子どもは「素直」という力を持っています。
それは、全てをゼロベースで評価する力です。
大人になると、「世界」を観るカメラのレンズに「色」や「埃」がついてしまい、
この「素直」という力が薄れていきます。
しかし複雑怪奇なこの「世界」では、
ありのまま「自分にとって」という視点で周囲の風景を観ることがとても重要なのです。
その視点を失うと、自分の「幸せ」が何なのかわからなくなります。
自分が生きているのは、はたして誰のためなのか?
 
その問いに対して、
いろいろな建前を度外視して、肩の重荷もドサッと降ろしちゃって、
「自分の勝手でしょ!」と答える勇気も、時には必要なのかもしれません。