「朝」を制する者は、「人生」を制する

私やあなたの「人生」は、もうどのくらい過ぎ去ってしまったでしょうか。
 
私はおそらく「人生」の半ば以上が過ぎ去ってしまっています。
今までの期間、自分は何をやってきたのだろう・・と思わなくもないです。
 
しかし、私達には毎日「朝」がやってきます。
毎日「始まり」が用意されているのです。
 
それは、とてもとても有り難いことだと思います。
なぜなら、今までがダメでも「今日から」はうまくいくかもしれないからです。
 
例えば、野球をしたとします。
もし、その野球が9回で終わらないとしたら?
全部で900回やって、やっと勝敗が決まるとしたら?
そんなの途中で大量の点差がついて、嫌になりますよね?
 
しかしちゃんと9回で終わるとしたら、
「今日は負けても明日は勝つぞ」という気持ちになれる訳です。
 
そういう風に考えていくと、「朝」の存在はとても有り難いと感じませんか?
昨日は最悪な一日でも、今日は最高のイケてる一日にできるかもしれない。
 
ということで、「朝」をあがめましょう(笑)
「朝」の時間を、大切にするのです。
 
くれぐれも、前日に夜更(ふ)かしして、
「朝」出勤時間ギリギリで目覚め、焦りながら家を出るのはやめましょう。
一日の始まり、いや「人生」の始まりを、しっかりと感じるのです。
 
生まれた時は、泣いて生まれてきましたが、
明日からの「人生」の始まりは、笑顔で充実した気持ちで迎えましょう。
 
私のオススメは、朝の散歩です。
朝の散歩において、特に感じてほしいのが鳥たちのさえずり。
そして、朝日です。
 
夜が明け、鳥たちは「さあ、今日も1日がはじまるぞ!」と
一生懸命さえずっています。
その希望に満ちたエネルギーを感じたいものです。
 
鳥たちは、「始まり」を教えてくれる朝日をとても待ち望んでいます。
 
「うつ」の療法として、朝日を浴びるというものがあるそうです。
太陽の光には「セロトニン」の分泌力を高める効果があります。
過剰なストレスや環境の変化などが影響して「セロトニン」は減少してしまいますが、
反対に太陽の光を浴びることでセロトニンを増やすこともできるのだそうです。
 
「うつ」には閉塞感が伴います。
しかし朝日を浴びることで、
「まだ終わっていない」「これから始まるんだ」という気持ちにも
なるかもしれないなと思う次第です。
 
早起きして余裕をもって会社に行くと、
心の準備が整った状態で、仕事を始められます。
朝は、最も脳が働く時間帯。
その時間を、早起きして整った状態でフル活用できると、一日の仕事の質も向上します。
 
「朝」というチャンスを、軽視してはいけないのです。
「朝」を制すれば、これから先の「人生」を制することができます。
ゆめゆめ、夜ふかしという現実逃避で、
「人生」の始まりをつぶすことなかれ。

「科学」と双璧を成す「表現」という技術

この「世界」は、「物質」と「情報」に二分できる・・・と私は考えています。
 
目の前の「世界」には、「物質」の世界と「情報」の世界がある訳です。
「物質」の理解は、「科学」として進展しています。
「物質」は最終的に、「数字」あるいは「数式」で表すことができる訳です。
しかし直感でわかると思いますが、
「数式」には「意味」はありません。
 
「ふ〜ん、そういう数式になるんだ」で終わるのが「科学」です。
ですが「数式」までわかったら、
「科学技術」としてその「物質」を活用できるようになるのが「科学」です。
 
一方で「情報」への「理解」は、「科学」のように体系だって行われていません。
最も王道の手法は「哲学」です。
「哲学」は、この「世界」の「情報」の根幹的な解明を目指しています。
あとは、「心理学」や「文化人類学」なんかも「情報」の「解明」です。
 
他にも、「宗教」や「文学」や武道や茶道などの「道」。
様々なアプローチで人類は、目の前に広がる「情報」の解明を行ってきました。
 
「物質」は「数字」や「数式」に還元される一方、
「情報」は「文字」や「意味」に還元されます。
 
「哲学」も「心理学」も「宗教」も、
対峙する「情報」が「意味」として「解明」できると、そこで「理解」は終了です。
「意味」まで還元できたときに、人は「腹落ち」した状態になります。
 
ところで、私達の「自我」や「意識」あるいは「心」は、
「物質」でしょうか、それとも「情報」でしょうか?
 
私は、「情報」だと考えています。
なぜなら、例えば私達の体は新陳代謝により、
3ヶ月で全ての物質が入れ替わっています。
それなのに私達の「意識」は、もっと長い期間継続して存在している訳です。
 
ですから、私達の正体は「情報」だと、私は考えます。
 
さて前段の説明をしたところで、今日の本題です。
 
私は冒頭で、この「世界」は「物質」と「情報」に二分されると言いました。
この両者は、本来対等な関係であるはずですが、
現代の「科学」の時代においては、
「物質」への偏向が激しすぎるように私は思うのです。
 
松下幸之助さんは、
松下電器を立ち上げ、戦後焼け野原の日本に「モノ」をもたらした後、
「モノ」が豊かになった日本において、今後は「心」を満たす必要があると、
PHP研究所」や「PHP出版」、「松下政経塾」等を創設しました。
 
PHP出版」の書籍なんかは、今でもコンビニの書棚に陳列され、
悩める日本人の「心」を救っている訳です。
 
「哲学」に関する書籍も、よくコンビニで見かけます。
「物質」を解明する「科学」だけでは、私達は豊かになれないのです。
 
もっと「情報」(心)を解明する技術にも脚光が当たるべきだと、私は考えます。
 
例えば、盲目的に「宗教」をバカにする人がいますが、
真剣に自身の「世界」に向き合って理解しようとしている人に対して、
浅慮な侮蔑は、とても失礼だと感じる次第です。
 
例えば、毎週日曜日教会に通う敬虔なクリスチャンは、
毎週、自身の精神世界と向き合っています。
そして、自分の「心」の意味、この「世界」の意味を、
懸命に理解しようとしている訳です。
 
そういう、私達の根幹に根ざす根源的な取り組みに対して、
「科学的でない」という理由で、侮蔑するとしたら、
それはとても浅はかなことであると私は考えます。
 
「情報」(心)への対峙・解明は、
「科学」と双璧を成す、我々が行うべきタスクです。
 
「科学」は、「物質」を理解して、「物質」を操作して、
我々に物質的な豊かさを提供してくれます。
ですから、「科学」は偉大です。
 
一方で「情報」(心)へのアプローチの技術も偉大だと、私は考えます。
「情報」の「世界」は、「科学」とは別のルールが支配しているのです。
 
例えば、リンカーンの言葉が、キング牧師の言葉が、「世界」の運命を動かします。
感動する小説や映画、絵画、音楽等に出会えば、
私達の「心」は大きく動かされ、涙を流す訳です。
 
「情報」(心)の「世界」から、
「物質」の「世界」に直接作用するような「魔法」や「超能力」は、
この「世界」に存在しないと、私は考えます。
 
しかし、「情報」(心)の「世界」から、「情報」(心)の「世界」になら、
強力に作用を及ぼすことができる訳です。
 
私の頭の中では、
「科学」という素晴らしい技術と双璧を成す存在として、
「表現」があると認識しています。
「表現」こそが、もう一方の「情報」(心)の「世界」に作用する技術なのです。
 
ですから私はこの「世界」において、2つの技術の進展を祈っています。
1つは「科学」。もう一つが「表現」です。
 
「科学」も「表現」も、よい方向に活用することも、悪用することもできます。
 
「宗教」や「思想」も、「表現」という技術の一つ。
悪用もできる一方、よい方向に活用することも可能です。
 
「科学」を恐れる原始的な部族を見たとき、私達はそれをバカにします。
しかし「宗教」を盲目的にバカにする私達は、浅はかでないと言えるでしょうか?
 
もちろん「表現」を悪用している「宗教」は、悪い存在です。
しかし、もっと根幹に踏み込んで、「科学」に対して持つ「理解」と同じように、
「情報」(心)にアプローチする活動や技術にも、
重要な「意味」があると世の中の人が気づいてくれるといいな、と思います。
 
私もこのブログを通じて、
「探求」や「表現」を磨いていきたいなと考える次第です。
 

「特別」になりたい

人は「特別」に憧れる。
 
子どもの頃、人は「特別」な存在だった。
周囲から「特別」の存在として扱われ、
ただ笑うだけで、喜ばれた。
 
ただ笑うだけで、皆が喜んだ。
 
大人になると、「特別」ではなくなる。
「特別」でないことは、とても辛いこと。
 
どうしても「特別」になりたい人は、
例えば、アイドルを目指す。
例えば、政治家を目指す。
 
「特別」になれない普通の大人たちは、
笑うだけでは、もはや周りは喜んでくれない。
 
だから周りが喜んでくれるよう、
一生懸命に人の役に立とうとする。
 
「特別」になりたいから、
捨ててはいけないものも、捨ててしまう。
売ってはいけないものも、売ってしまう。
傷つけてはいけないものを、傷つけてしまう。
 
でも「特別」になりたい。
でも「特別」になれない。
 
どうする?
 
「特別」を目指して、このままイバラの道を進む?
「特別」でなくてもよいんだ、と自分を変える?
 
でも「特別」になりたい。
 
イバラの道でも「特別」を目指そう。
ただし、捨ててはいけないものは捨てない。
ただし、売ってはいけないものは売らない。
ただし、傷つけてはいけないものを傷つけない。
 
でも、何のために「特別」になるのか?
「特別」になって、何かいいことがあるのか?
 
誰かの「特別」になったら、「心」が満たされるかもしれない。
あの頃のように。
「心」を満たしたい。
 
「心」を満たしたい。
ますは「心」を満たしてから、次に進みたい。
 
うん。次に進む。
うん、少しだけ「心」を満たしたら、今度は他の人の番。
他の人の「心」を満たせる人間になろう。
 
だから、少しだけ「特別」になりたい。
ちょっとだけ「心」を満たしたい・・・

「幸せ」に生きるための様々な特殊能力

「生きる」ということは決して楽なことでは、ありません。
仏教でもそう言っていますが、
おそらく「生きる」という行為そのものは、
客観的に考えたら「苦しみ」であると言えるはずです。
 
何のために生まれたかわからず、
ただ「生きろ」という「遺伝子」や「社会」の命令に従って「生きている」というのが、
冷めた目で視た私達の「人生」の正体なのだと思います。
基本、私達の「心」あるいは「魂」は、「遺伝子」あるいは「本能」の奴隷です。
 
もちろん、ご主人様である「遺伝子」は、
奴隷に「快楽」というアメもくれてやります。
しかし「快楽」に振り回されれば振り回されるほど、
人が更に「不幸」になっていくことは、ご存じの通りです。
 
しかしそれではあまりにも辛いので、
私達「魂」は、様々な「力」を駆使して、
「生きる」ことを肯定的に受け入れようとします。
「幸せ」とは、「魂」が「人生」をうまく受け入れられた状態を指すのです。
 
よく問われる哲学的疑問として、
「人生に意味はあるか?」という問いがあります。
私の、現時点の回答はこうです。
 
生まれた時点では「人生」に「意味」はない。
しかし、小石等の異物が入って苦しんだ貝が自身の体内に生み出す真珠のように、
人は「生きる」に伴い、「人生」を「意味」でコーティングしていき、
「人生」を「宝石」に変えようと努力する。
 
だから「人生」に「意味」は、ある。
「人生」の「意味」は、
「魂」が「人生」の「苦しみ」をコーティングするために生み出すものであり、
苦しい「人生」を「宝石」に変化させる魔法のマテリアルである。
 
さて、「心」あるいは「魂」は、
上記に述べた方法の他にも、様々な「力」を使って、
この「人生」を乗り切ろうとしています。
 
例えば、私はあまり持っていませんが、「見つけ出す力」。
私の友人がそうです。
どんな苦しい一日であっても、
小さなラッキーやハッピーを、その人は見つけ出します。
その人は、そうすることで日々を生きています。
その人は、本当に強い人です。
 
他にも「感謝する力」。
これまた、私はあまり持っていません。
この能力を持つ人は、苦しい「人生」にすら感謝することができるのです。
そもそも生まれたことを根本から肯定し、
「人生」全てをラッキーあるいはハッピーと捉える力を持ちます。
 
あるいは「考察する力」。
これは、私も持っています。
こういう人達は、「人生」の「本質」を理解しようとするのです。
「人生」のネガティブな側面を客観的に把握する一方、
対比として浮かび上がるポジティブな「魂」の働きにも気づくことができます。
 
そして「楽しむ力」。
この力は、「魂」が子どもの頃から有している一番ポピュラーな力だと言えるでしょう。
子どもは、2つの行動原理で動きます。
(1)「不快」「苦しみ」からは逃げる。
(2)「興味」「楽しさ」に向かって動く。
※(1)と(2)は、互いに独立している
 
この子どもの2大行動原理については、過去ブログで言及していますので、
よろしければそちらも覗いてみて下さい。
結構、人気の記事です。
 
子どもの「魂」も、「苦しみ」から逃れるだけの無力な存在ではありません。
「興味」「楽しさ」に向かおうとする力強さを既に有しているのです。
 
ですから、子どもは誰に命令されることなく主体的に「遊び」ます。
「魂」が既に、そういう存在であるからです。
 
この子どもが元々持っている「楽しむ」力。
大人になると段々失ってしまいます。
大人になることをやめたピーターパンが魅力的に映るのは、
この「楽しむ」力を失った大人達が懐郷の念を抱くからではないでしょうか。
 
私は、この「楽しむ」力をまだ十分に有しています。
道行く先で出会う、雑草や鳥たちを見て聴いて感じて、楽しむことができるのです。
ちまたで話題のポケモンgoにチャレンジして、
自分の「楽しみ」にすることもできます。
そして、この「楽しむ」力を持っている人は、
毎日の仕事すら「楽しみ」に変える素質を持っているのです。
 
私も最近その才能が開花してきて、仕事にすら「楽しみ」を見出しつつあります。
 
本来「人生」は、「不快」や「苦しみ」ばかりです。
しかし子どもは、その苦しい「人生」を、
「遊び場」に変える「魔法の力」を持っています。
 
そんな素敵な力を、大人になったらなんで手放してしまうのでしょうか?
もちろん大人になったら、子どもの頃のような幼稚な遊び方はできません。
しかし、その「魔法の力」まで手放すことはないのです。
大人になったら、大人の楽しみ方があります。
 
まあ確かに大人は、子どもの頃のように何にでも感動できる訳ではないです。
だったら、もっと感動できる素敵なことを見つけ出せばよいだけだと思います。
「世界」は、我々一個人が一生かかったって飽きることのない巨大な「遊び場」です。
 
ポケモンgoをやっているという私の記述に、
「えぇ・・」と引いている人もいるかもしれません。
しかし、それは「楽しむ力」を軽視している現れかもしれないのです。
 
自身を縛る様々な固定観念を捨てて、
自身の「幸せ」に対してもっと真剣に向き合った方がよいと思います。
 

「思い出」至上主義

会社からの行き帰り、休日等、
未だにポケモンgoをやっています。
歩いた距離は、累計で860㎞です。
 
ポケモンを集めていると、
持てる数に制限があるので、
自分なりの優先順位をつけて、
ポケモンを捨てていく必要があります。
 
保管枠はすぐに一杯になるので、
ポケモンgoとは、
ポケモンを捕まえるゲームであり、
かつポケモンの優先順位をつけて、
捨てるポケモンを決定するゲームでもあるのです。
 
もちろん整理の方法は、
マニュアル化されていません。
各プレイヤーが自分で考えて、
独自の整理ルールを編み出している訳です。
 
もともとポケモンgoは、
マニュアル的情報がほとんどありません。
各プレイヤーが、
自らの試行錯誤で経験を積んだり、
あるいは自身で情報を収集して、
ポケモンgoというゲームを進めているのです。
 
マニュアルがないという点では、
「人生」と似ています。
私達の「人生」も、
自らの試行錯誤で経験を積んで学習したり、
あるいは書籍やレクチャー等他者の情報を収集して、
自身の「人生」を進めている訳です。
 
ですからポケモンgoをたかがゲームとバカにすることも簡単ですが、
使い方によっては自らの「人生」にインストール可能な知恵を取得できると、
私は考えます。
ゲームのようなこちらから働きかけることができるコンテンツは、
「人生」における自身の思考パターンをあぶり出し、
見直す機会を提供してくれるのです。
 
さて、冒頭のポケモン整理の話に戻ります。
ポケモンgoの目的の一つは、特定の場所の陣取りです。
日本や世界中のあらゆるところに「ジム」という、
陣取り用のエリアが用意されています。
ここをプレイヤーが自身のポケモンを使って取りあうのです。
 
ですから、手許に残すべきポケモンは強いポケモン
あるいは、成長させれば協力になることが予見される素質のあるポケモン
まずこれが、多くの人が共有するポケモン整理のマイルールだと思われます。
 
ただその大前提に乗る形で、各プレイヤーの様々な個性が表れるはずです。
例えば、ポケモンには戦う相手ポケモンとの相性というものがあります。
自分の住んでいる地域で、
「ジム」を陣取っているポケモンの傾向に偏りがある場合、
そのポケモンに対して強いタイプのポケモンを数多く有する方が得策でしょう。
 
この部分を「人生」に導入するならば、
ポケモンの有限な保管枠は、
同じく有限な自分の生きる時間に例えることができると考えます。
全てのことをやりきれない「人生」の時間の中で、
自分は何を選び取って生きていけばよいのか?
 
生きるためのお金を稼ぐために、
「仕事」に時間を使うことが、多くの人に高い優先度として共有されるはずです。
しかし闇雲に「仕事」に時間を使うだけでは、面白くありません。
 
まず「人生」の効率性を考えるのなら、
日々対峙する「仕事」に対して、
攻撃の効果を上げる方策を持つことにも時間を割り振る必要がありそうです。
それが、読書による知恵の収集であったり、
セミナーへの参加であったりします。
そうすることで、日々対峙する「仕事」ポケモンに対する相性度を高める訳です。
 
さて私は、ポケモン整理において、第三のルールを持っています。
そのマイルールの基準は、「思い出」の有無です。
ポケモンgoでは、捕まえた土地の市区町村が表示されます。
例えば、私が関ヶ原に旅行してゲットしたポケモンを調べると、
「日本、岐阜県 大垣市」と表示されている訳です。
 
私は、今まで訪れた土地で必ず1匹は捕まえたポケモンをとっておくようにしています。
すると、ポケモンの保管枠の整理においても、
「思い出」ポケモンは、ポケモン世界を生きるために必要なルールに淘汰されずに、
私の保管枠に生き続けている訳です。
 
そのポケモンを見ると、旅をした風景の記憶が蘇ります。
ただ強いだけの地元でゲットしたポケモンにはない効果を、
「思い出」ポケモンは有している訳です。
 
「人生」においても、ただただ「仕事」して稼いで終わりでは、味気ありません。
「生きる」上での効率には反するかもしれませんが、
やはり「思い出」という価値基準を持つことは重要だと思うのです。
 
1日24時間、1年365日、限られた時間の割り振りにおいて、
「仕事」の合間にやるべき最優先のことは、「思い出」づくりだと考えます。
 
オフの時間帯は、なるべく家にいない。
自分にとってお馴染みの空間の家にいたって、
「思い出」が生まれるはずがないですから。
 
ですから私は、ポケモンgoを片手に今日も外に出ます。
外を歩いて、様々な風景を見たり、様々な生命に出会うと、
「心」が動き「思い出」に残っていくんですよ。

「命の器」

4回前3回前のブログ記事は、
「命」とは何か?ということについての「考察」でした。
 
その際に、
電子書籍で参考文献を探していたところ、
小説家の宮本輝さんの「命の器」というエッセイ集に目がとまり、
レビューの評価も素晴らしかったので購読してみました。
 
エッセイは、
ご自身の自伝を軸にしたもので、
とても味わいのある内容でした。
 
そういったエッセイの中でも、
表題となっている「命の器」というエッセイが強く心に残りました。
 
以下、エッセイから一部引用です。

抗っても抗っても、
自分という人間の核を成すものを共有している人間としか結びついていかない。
その恐さ、その不思議さ。
私は最近、やっとこの人間世界に存在する数ある法則の中のひとつに気づいた。
「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。

 
私も40年以上生きてきて、
この「人生」の法則に深く同意します。
 
まず八方美人というものは、
絶対にあり得ないということです。
全ての人とつながりたいという想いは、幻想でしかありません。
その純粋無垢な願いは、自らを苦しめるだけなのです。
 
そうではなくて、
「自分という人間の核を成すものを共有している」人との出会いこそ、
願うべきものであり、「幸せ」をもたらしてくれるものだと、私は想います。
 
私も若いうちは八方美人で、
人とつながれないことを大いに悩んでいたものです。
しかし、年を経るに伴い、
いつの間にか自分とつながっている人々がいることに気づきます。
そうしてそういう人達とは、
確かに「自分という人間の核を成すものを共有している」ことを感じるのです。
 
逆に自分とは絶対につながれない人も、わかってきます。
そういう人達とはつながれないし、
つながっていない方が「幸せ」なのだと、
いつの間にか確信的に気づくのです。
 
恋愛や結婚についても同様だと、私は考えます。
特に一生を共にする結婚については、
外見よりも愛嬌よりも年収よりも世間的ステータスよりも、
「自分という人間の核を成すものを共有している」かどうかが、
重要な鍵となるはずです。
 
パートナーは自分の見栄を満たすアイテムでもないし、
自分の欲を満たすアイテムでもありません。
 
道具と結婚したい人は、そうしたらよいでしょう。
しかし、二人で歩むことで大事な「何か」に気づきたいと考えるなら、
あるいは、自分の「人生」を真剣に大切に想うのなら、
「自分という人間の核を成すものを共有している」人を探すべきだと想います。
 
私の考えでは、
「人」とは、
「遺伝子(本能)」と「心(魂)」の綱引きの上に成り立っている存在です。
そして私達の本体は「心(魂)」の方なので、
「遺伝子(本能)」の企(たくら)みに乗ってしまうと、
「心」は「不幸」になると考えます。
 
私の経験と照らし合わせても、
「自分という人間の核を成すものを共有している」人とは、
真の仲間となることができるようです。
その人達のためには、
自分の資源や力をいくら提供しても惜しくありません。
 
それが自分の「命」の使い方だと想えるのです。
 
自分と同じように、
人とつながれないと悩む若い人がいたら、私はこう伝えたい。
 
心配することはない。
万有引力の法則のように、
自然と運命的に「自分という人間の核を成すものを共有している」人と
この先出会っていくはずだから。
 
宮本輝さんの言うとおり、

抗っても抗っても、
自分という人間の核を成すものを共有している人間としか結びついていかない。
その恐さ、その不思議さ。

なのです。
 
この「魂」の万有引力を最大限に発揮したいのであれば、
この「人生」の法則を理解し、
そうして「自分という人間の核を成すもの」を深めていくことが肝要でしょう。
 
この法則を理解すれば、
「人生」の本番あるいは幸福な時期というのは、
若い時期ではなく中年以降の時期なのだとわかります。
「人」として生まれた「喜び」は、
ワインのように年を経るほど芳醇に味わい深くなるはずなのです。
 
宮本輝さんは、ご自身のエッセイをこのように締めています。
「どんな人と出会うかは、その人の命の器次第なのだ。」
 
より美味しく「人生」を味わうために、
自身に与えられた「命の器」を磨き続けていきたいものですね。
 

「人生」を「旅」と思えば「ハレ」やかだ

「人生」を「旅」と思えば、
いろんな「執着」を捨てられます。
「執着」から解放されるから、
「人生」を楽しめるし、
「人」にも優しくなれ訳です。
 
私は「ポケモンgo」をやっています。
バカにする人もいるかもしれないけど、
「人生」を「旅」と捉えるなら、
こんなエポックメイキングなゲームをやらない方がむしろどうかしています。
全世界が熱狂しているゲームです。
国境や世代や人種を越えて語りあえるゲームなんて、早々ありません。
 
せっかくこの面白い時代に生まれたのに、
ポケモンgo」を体験せずに「人生」を終えるのですか?
私は、この「世界」を満喫して「人生」を終えたいと思います。
雪祭りのシーズンに札幌を訪れたのなら、
絶対「雪祭り」は見に行きたいと思うのと一緒です。
 
ところで、「ハレ」と「ケ」という日本人の伝統的な世界観を知っていますか?
ウィキペディアは、こちら
 
民俗学文化人類学において「ハレとケ」という場合、
「ハレ」は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、
「ケ」は普段の生活である「日常」を表します。
 
「ケ」という表現はあまり使われなくなりましたが、
「ハレ」は、「晴れの舞台」とか「晴れ着」とか、
まだまだ日本人の精神性に根付いて使われているようです。
 
日本人は「ハレ」の日を楽しみにして、「ケ」の日常を生きてきました。
 
しかし現代日本人は、生活に「ハレ」と「ケ」の区分を失いつつあるようです。
例えば、伝統的な地域コミュニティの影響力がなくなり、
地域の祭りを「ハレ」として熱烈に楽しむという風でもなくなってきました。
 
日本人の生活から「晴れの舞台」がなくなってきているのです。
 
「ハレ」という概念がなくなってくると、
今もこれからも、毎日同じ日常が続くような錯覚に囚われてしまいます。
これが、現在うつが増えている一つの要因ではないでしょうか。
 
ですので、「人生」を「幸せ」に生きるためには、
まず自分なりの「ハレ」を構築する必要があると、私は考えます。
もう、地域の祭りは「ハレ」として機能しなくなったのです。
 
では自分なりの「ハレ」とは何か?
それは、例えば「旅」なんだろうなと思います。
私も先日、関ヶ原を「旅」して来ましたが、
やっぱり行ってよかったなと思います。
その体験は私にとって「ハレ」の記憶となり、
「ケ」の日常を生きる支えになっているのです。
そして「次はどこに行こうかな」と、
将来の「ハレ」を夢想できるようになりました。
 
JTBの入社試験で、
「旅とは何ですか?」という問いがあったそうです。
「深い質問だな・・」とずっと考えていたのですが、
今なら答えられます。
 
「旅」とは、「ハレ」です。
「旅」は、「ケ」の日常を生きるエネルギーを与えてくれます。
「旅」は、私達生活者が求める「非日常」なのです。
 
さて冒頭で、私は「人生」を「旅」と捉えていると申しました。
つまり、この「人生」全体を「晴れの舞台」と捉えているのです。
 
もちろんず〜っと「旅」気分でいる訳にもいきませんが、
この「人生」は「旅」であると認識することで、
私の「人生」で起きるいろんなことが、楽しくそして愛おしくなります。
そして「次はあっちを見学したい!」と、
前向きに行動的になることもできるのです。
 
憎しみやコンプレックスやお金や世間体や老後や、
様々なものに囚われている人を見ると、
「せっかくの旅行なんだから、もっと楽しめばいいのに・・・」と率直に感じます。
 
本当にこの「世界」は、観光名所だらけです。
旅行先で友達同士ケンカするのもよい思い出にはなるけど、
こんなに、見たり体験するものが一杯あるんですから、
訪れたこの「世界」を存分に楽しみたいなぁと、私は思います。
 
「旅」には、「上手・下手」が明確に存在するようです。
一人旅を楽しめる人は、「旅」が上手だと言えます。
必要なものは、「好奇心」「世界を愛おしく感じること」くらいかな。